$${\text{万寿寺通}}$$(まんじゅじどおり)は、西暦794 (延暦13)年の 平安京開設 の際に開かれた「 樋口小路 」にあたります。
✍️なお、このサイトでの説明には、俗称の「まんじゅ$${\text{う}}$$じどおり」ではなく、学術的な呼称「まんじゅじどおり」の言葉で説明しています。
🗣≪<< $${\text{まんじゅ}}$$$${\LARGE\text{う}}$$$${\text{じどおり}}$$
1)「万寿寺通 」の 由来 と 歴史
$${\text{現在}}$$ この通りの名前になった「万寿寺」はこの通りには存在しません。
〓 「万寿寺(萬壽禅寺 )」 ッて 〜 どこに あったん⁉️ 〓
$${\text{万寿寺}}$$( 萬壽禅寺 )は、1330(元徳2)年〜1591(天正19)年の間、
樋口小路( 現: 万寿寺通 )の南側、
高倉小路( 現: 高倉通 )~ 東洞院大路( 東洞院通 )間にあったと言われています。
$${\text{下図の}}$$現在の地図を見てみると、付近の
万寿寺通には「万寿寺中之町」の町名、
五条通には「万寿寺町」の町名
ーーー が残っています。
$${\text{ちょうど、}}$$ ーーー
⚫︎ 東端 = 東洞院通 〜
⚫︎ 西端 = 高倉通 〜
⚫︎ 北端 = 万寿寺通 〜
⚫︎ 南端 = 五条通
ーーー を囲うように2つの町名が残っていることから、そのあたりに「万寿寺(萬壽禅寺)」が存在したことを窺わせますね。
$${\text{旧地の}}$$このあたりに 「 万寿寺 」は、
⚫︎ 通り名:万寿寺通
⚫︎ 町名:万寿寺中之町 、万寿寺町
として、名残りをとどめているのです。
〓 「万寿寺(萬壽禅寺 ) 」 ッて 〜 「東福寺 」…⁉️ 〓
$${\text{万寿寺}}$$( 萬壽禅寺 )は、1386(至徳3)年に 禅宗 京都五山(天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)の第五位となり、当時は 公家や足利家をはじめとする武家の崇敬を集めたものと言われています。
$${\text{秀吉}}$$ の京都「都市大改造」事業によって、1591(天正19)年に、京都五山第四位の「東福寺」の北側にあった「三聖寺」の隣地に移転されました。
$${\text{その後}}$$ 1873(明治6)年、 「三聖寺」は 「万寿寺」 に合併され、1886(明治19)年には 臨済宗 大本山 「東福寺」の 『塔頭』 になり、現在に至っているとのこと。
$${\text{現在}}$$ 〜 京都市 東山区本町五丁目にあり、臨済宗大本山の「東福寺」内にある「万寿寺」は、特別扱いの塔頭寺院になっており、非公開 寺院 であるため、鐘楼を上層に載せた山門から境内を覗うだけとなっています。
⬆️ 「万寿寺」 の説明サイト ⬆️
2) 現在 の 「万寿寺通」
〓 万寿寺通 の 概要 ッて 〜 ⁉️ 〓
$${\text{万寿寺通}}$$は、現在の 京都市内 の 『松原通 」と 「五条通 」の間を 東西 に走る通りで、$${\text{車は}}$$$${\text{東行き}}$$$${\text{への}}$$$${\text{一方通行}}$$です。
$${\text{他の道}}$$と比べると、以下の特長があります。
$${\text{①}}$$ 全体的にはかなり狭い道幅の箇所が多い
$${\text{②}}$$ 車 と 自転車 の往来が比較的に少ない
$${\text{③}}$$ 昭和の雰囲気が残っている箇所が多い
🤫個人的には、$${\text{一番好きな通り}}$$ =$${\text{ My favourite street }}$$ですねん ---⁉️
🗣≪<< $${\text{まんじゅ}}$$$${\LARGE\text{う}}$$$${\text{じどおり}}$$
$${\text{車は}}$$ 東行きへの一方通行なので、「東中筋通 」から 「西洞院通 」に向かう道幅もかなり狭いので、運転苦手の普通車はいつもノロノロ運転で、サイドミラーを引っ込めて通って行く光景もよく見かけますね。
$${\text{特に}}$$ 「富小路通」から「河原町通」までの区間( 富小路通→麸屋町通→御幸町通→寺町通・河原町通 )を通って行くには、軽自動車 がやっと通れるくらいの道幅しかありません。
〓 万寿寺通の 最東端 の「万寿寺橋」 ッて 〜 ⁉️
$${\text{万寿寺通の東端}}$$ は、「寺町通」南端 と 「河原町通 」が合流する交差点から、更に東へ抜けられる小道があります。
$${\text{その抜け道}}$$は、近辺の住人はよく利用される、自転車がやっと通れるくらい の路地のような 狭い道幅の「抜け路」を進んで 行きます。
「 $${\text{万寿寺橋}}$$ (まんじゅじばし)」が、突き当たる手前を流れる「高瀬川」の上に 架かっています。
$${\text{その}}$$「高瀬川」沿いを走る「木屋町通」で 行き止まりとなり、ココが 「万寿寺通」の $${\text{最東端}}$$ になります。
$${\text{木屋町通}}$$(きやまちどおり)の東側は、ご存知の通り「鴨川」が流れており、一筋 北に「松原橋」・一筋 南には「五条大橋」が架かっています。
$${\text{木屋町通の東}}$$に流れる「鴨川」を越えた 更に 東の延長上は、「柿町通」、「ろくはら裏門通」に繋がっています。
〓 万寿寺通の 西端 ッて 〜 どないなってるん ⁉️ 〓
$${\text{西端は、堀川通}}$$を渡って、1本目の「岩上通」・2本目の「猪熊通」を通り過ぎ、3本目「黒門通」と 「万寿寺通」 が$${\text{合流}}$$して、この角で 一旦 途切れ ます。
3) 現在 までの 「万寿寺通」
〓 「万寿寺通」 界隈 の 衰退 〓
$${\text{万寿寺通}}$$の 「寺町通 」から 「西洞院通 」の間には、今から約90年前の1930年代 = 戦前には、仏具店だけで 30店もある「仏具屋街」だったそうですが、2024年現在では 6社7店舗ほどに激減しています。
$${\text{それに}}$$関連して、仏具、法衣、掛け軸、京扇子、水引など仏事・慶事の店も かつて 並んでいましたが、こちらも衰退しています。
$${\text{「東洞院通」}}$$から「西洞院通」にかけては、かつての 昭和 の 京呉服業界 の景気がよかったご時世には、いわゆる「$${\text{室町筋}}$$」と呼ばれる 和装業者( 呉服問屋、絞り屋、和装小物店、悉皆屋 他 )が軒を連ねていましたが、今は見る影すらありません。
$${\text{また、}}$$寺院が集まる 「寺町通」 や 「本願寺」さん からの定期的な需要もあったためなのか…「寺町通」から「堀川通」までの間には 仏壇・仏具屋さんだけでなく、 表具屋さん、建具屋さん、畳屋さん も多かったようです。