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工学的な「心」の説明 〜受動意識仮説〜

院試が終わって時間に余裕がある(なんてことは断じてないのだが自分にそう言い聞かせることができた)ので、色々本を読んで勉強することにしました。(長続きするかは知らん)


私は読書の習慣がないので、長続きさせるためにまずはすでに知っているテーマについての本を読むことにしました。


今回は受動意識仮説をテーマ(の一つ?)にしたこの本の読書感想文です。

脳はなぜ「心」を作ったのか ─「私」の謎を解く受動意識仮説
前野 隆司
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480427762/


※これはあくまで個人的なログとして自分が感じたことをまとめて残すためのものであり、この本の内容を解説したり読者を説得したりする意図では作られていないことをご了承ください。



心とは

まず、心の働きは以下のように分化されます。

  • 知: 色々考える働き

  • 情: 感情を生成する働き

  • 意: 意思決定をする働き

  • 記憶と学習: …んまあ読んで字のごとき働き

    • 宣言的記憶: 記号やイメージを使って表せる記憶

      • エピソード記憶: 自己の体験に関する時系列的な記憶

      • 意味記憶: モノやコトの意味や定義に関する記憶

    • 非宣言的記憶: 宣言的記憶以外の、俗に言う"体で覚える"記憶。

  • 意識

    • モノやコトに注意を向ける働き

    • 自己意識←我々が「自我」などと呼び、クオリアを伴ってそれ自身を知覚する再起的な構造を持つ



心は受動的

これらは一見私たちが主体的に利用しているように感じるかもしれませんが、実は全て受動的なものなのです。

例えば「知」の場合。私たちは「1 + 1 = ?」という視覚情報を得た時ほとんど条件反射で頭に「2」を思い浮かべるでしょう。
あるいは「情」の場合。思わず笑ってしまった時やびっくりした時を想像すればこれが受動的であることは容易に納得できます。

「意」の場合。自分の意思決定が受動的であると言う考えは中々直観的に受け入れることはできないですよね。ただこの手の話でよく引用されるリベットの実験があります。ざーーーっくり概要を述べると、被験者が
①手を動かそうとした時刻
②手の筋肉を動かす意思決定を知らせる電流が流れた時刻
③実際に手が動き始めた時刻
の3つを比較した実験です。当然①→②→③の順に観測されると予想する方が多いでしょうが、実験の結果は②→①→③の順になりました。つまり、人が手を動かそうと意識するより少し前にその意図を伝える電流が流れていたわけです。後にこの実験は再現されましたが何度やっても同じ結果が出たそうです。このように「意」も実は受動的であるのです。

このように、山の頂上にいる「意識」が知情意の働きをトップダウンに制御していると言うのではなく、実は「意識」は知情意の勝手な働きを観測しているだけの存在にすぎないと考えるのが妥当なのです。


上記の事柄に加えて錯覚という現象もあるように、「意識」はただ知情意の働きをそのまま観測しているのではなく、その情報を時空間的に歪ませて自己意識に認識させています。我々はそれによって自らが主体的に生命活動を行っていると認識することになる。



意識の役割

ではこんなあべこべな自己意識もとい「意識」はなんのために存在しているのか疑問に感じてしまいますが、「意識」はエピソード記憶の形成にとって重要です。何せただ知情意の働きにしたがって反射的に行動するだけでは虫と変わりません。人間が高度な知的活動をするためのエピソード記憶の形成という点において「意識」は重要なファクターとなっているのです。

エピソード記憶による人間の高度な知的活動には二つの機構が含まれます。一つはフィードバック機構、もう一つはフィードフォワード機構です。フィードバック機構では知情意による行動とその結果をエピソード記憶として学習して成長します。スポーツ初学者が失敗を重ねながら徐々に技術を身につける過程がこれにあたります。「原因Aが結果Bを引き起こした」という流れの機構です。フィードフォワード機構では因果の順番が逆転します。ベテランのスポーツ選手は競技中に起こりうる様々な可能性とそれに対する最適解をエピソード記憶に保持しているので、最適なパフォーマンスを発揮するために逆算して自身の行動を決めます。ここでは「結果Bを導くために原因Aを引き起こす」という流れで先に建てた目標に向かって自身の行動を決定します。
実際はこれら2つの機構を兼ね備えた機構をもちます。例えば新しいスポーツを始める際、最初は右も左もわからず立てるべき目標がないのでフィードバック回路のみが機能します。しかし学習を重ねるにつれてフィードバック回路での誤差は減少するとともに目標の設定が強固になり、フィードフォワード機構が優勢となります。



心の最小単位

そもそも心の機能の正体はニューロンという神経細胞の集合からなる電気回路です。各ニューロンは自身とつながった他のニューロンからの電気刺激の重みつき和を計算し、その値がある閾値を上回っているかどうかに応じて電圧のオンオフを切り替えるといった感じのようです。またニューロンの電圧を伝える時の重みはそのニューロンが活発になる程大きくなるようで、いわば多数決のような形でどの要素をどれだけ重要視するか、出力値の決定を行っているようです。

そんな感じで心の機能の実態は「意識」も含め皆ニューロンたちの民主主義であり、自己意識はそれらの決定を傍観する「意識」を知覚してあたかもそれが「意識」の主体的な活動であると錯覚する仕組みになっているのです。



まとめ

  • 心はニューロンの電気回路を統一的な構成単位にもつ。

    • ニューロン間の民主主義的システムで出力値が自動的に決定されている。

  • その構成単位が「知」「情」「意」「記憶と学習」「意識」に役割分化している。

  • 心の役割はどれも受動的である。つまり心の役割はある決定機関によって上から統制されたシステムではなく当事者間の相互作用によって民主主義的に機能するシステムである。

  • 「意識」はニューロンの出力に注意を向け、それを時空間的に歪んだ形で自己意識に知覚させることで我々(自己意識)はあたかもそれが自身の主体的な活動であるかのように認識する。

  • 人間はフィードバック機構とフィードフォワード機構を兼ね備えた制御回路にエピソード記憶を入力することで高度な知的活動を行っている。



感想

本の中でもコペルニクス的転回を用いた表現が多用されていましたが、

「自分が中心だと思い込む→疑いが生じる→自分が傍観者であることに気づく」

という流れは本当いろんなところで経験します。ここで自分の傍観者性を淡々と受け入れれば何も支障はないのに、知ってしまったことで返って「自分が特別でありたい」だとか「何か腑に落ちる意味があるはずだ」みたいに固執して考えるようになってしまうのでしょう。それでもまだ自分の固執した考え・執着に無自覚でいられればマシなのでしょうが、藁に縋るみっともない自分を斜め上から俯瞰して見てしまうと、もうどっちに転べば良いのかわからない蟻地獄にハマってしまうんだろうなーと感じます。

「そんなどうしようもないことをいちいち考え込んでも意味ないからやめろよ」ってツッコミには反論できないのですが、これに納得できる人ならそもそも最初からこんな固執してはいないんだろうなと。

なんかこう、精神的な着地場所が欲しいですね。日常で「地に足をつけて生きる」という表現を使うことがよくあるのですが、まさにそれ。頼れる人が欲しいとか甘えたいとかそう話ではなく、「心とは」みたいな問いに対して理論的な到達点に達してかつ感性的に納得のいく答えが欲しい。


あ、そんな答えなさそうだなって理解してしまったから今こうして反実仮想してるのか。







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