「理念」の正義感の恐ろしさ 〜新型コロナ禍、ロシア・ウクライナ紛争に対する世界の反応を受けて〜
皆さま、こんにちは。
今回はやや物々しい表題、内容となった事をお詫びします。
ただ、ここ最近の国内や世界の情勢を見るにつけ、どうしてもえも言われぬ小さな恐怖心や危機感を抱くに至り、書き留めておきたいと思った次第です。
筆者は、災害や非常事態などの際に引き起こされる最も大きな危険は、実際の外的な被害そのものではなく、パニックを起こした人心だと考えます。
人は安心や安全を求める生き物ですから、農作物についても、無農薬であるとか、オーガニックや有機栽培といった栽培方法にのっとって作られたものを求めたりもします。
パニックを起こさないために、そうなる事態を防ぐために、人々には良心や正義感があり、理不尽や非道な行為に対し、義憤するものですが、その「義憤」が、本当に、正しい意味での正義でなかった場合、曲解や配慮不足によるものであったなら、それは大変なことになるのではないか、そうした危機感に基づく考察になります。
例えば、無罪を主張するとある容疑者に対して向けられる嫌悪の目があったとして、それが冤罪だった際に、その容疑者に対して嫌悪した一般市民は謝罪する事はあるでしょうか。直接謝罪はしないにしても、お詫びの心を胸に抱くに至るでしょうか。
新型コロナウイルスの性質が分析・解明されるまで、マスクをしない乗客に、あからさまな敵意を剥き出しにした怒りを向けた「マスク警察」のような一般人。
後に、健康的事情により「マスクをする事が難しい」という人がいるのだ、という事を知った時。
かつてHIVウイルスの感染者が「エイズ」と差別されていた時もありました。
さらに過去に遡れば、結核などの伝染病患者や、らい病という病気の患者さんに対しても似たような差別があった、と聞きます。
病気だけに限らず、こうした事情を知らないで起こす「無知の正義感」による差別は、一見すると、その発端が純粋な正義感から引き起こされるだけにとてもたちが悪いものです。
筆者は基本的には個人は自由であり、その自由同士が衝突する時は、大原則は当事者同士の交渉によって解決すべきだと考えています。
その交渉手法において、暴力や一方的な力により解決を図ろうとする場合は、弁護士など冷静な第三者の力を借りる必要があり、それも当事者によるべきでしょう。
例えば、どうしても家族を守りたい私の自由がある一方で、マスクをしたくない自由も尊重されるべきです。
それらが衝突することにより、解決が困難であり、それでもやはりどうしても家族を守りたい、という事であれば、「私」はより厳重・堅牢な防毒マスクを着用する事も考えるかも知れません。新型ウイルスの毒性が解明されていない最中であったならば、ですが。
他国はわかりませんが、私たち日本人は、自由と同じくらいに同調圧力が強いと感じます。それは地方都市に移住したことで、東京に住んでいた頃以上に感じる機会も多いです。
その同調圧力により、防犯面や折り目正しさ、秩序などの道徳観などが醸成されている面もあると思いますので、何事も中道が肝要ということになるとは思います。
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前置きが長くなりましたが、先般、ロシアによるウクライナ東部への侵攻があり、それは首都キエフなど場所を選ばず、日々刻々と深刻な事態に発展し、欧米各国や国連をはじめ、世界中の国々がロシアを糾弾する様相で、多分に漏れず我が国も制裁決議その他、批判を強めています。
もちろん、一般市民を巻きこむ殺戮行為は断じて許されるべきではありませんが、同時にどのような経緯でこれらの行為にロシアが及んだのか、解明する事も必要です。
ロシアとウクライナ両国の当事者同士による停戦交渉も行われているようですが、簡単に合意に至るとは考えられず、この事態の深層には根深い問題があるとも言われています。2014年だったかと思いますが、ロシアのクリミア侵攻が発端とも言われており、さらにはロシアからの目線で考えるとNATO拡大によるロシアへの圧力も要因と言えそうで、東西両陣営の思惑が複雑に絡み合っていると言えるようです。
何度も言いますが、もちろん、何においても積極的に他を害する行為は許されるべきではありません。
それは筆者も変わらないと考えています。
ただし、何も見ない、何も聞かない、とにかく戦争反対!断固ロシアを許さない!とお題目のように唱え続けるのみでは何も解決しないのではないか、事態は収束するどころか、益々複雑になり、あたかもリング上で戦うボクサーやプロレスラー同士の試合にセコンド達が大勢雪崩れ込み、ひどく混乱した泥試合になるような、そういう危機感も抱いてしまいます。
特にここ数年の欧米諸国では、さまざまな人権活動の名において、「敵視」する対象に向けたヘイトクライムのような強い口調で「理念」を掲げた活動が行われる事があり、報道などで見聞きする機会が増えました。
筆者はLGBTQIAなど少数派と言った人達を否定する気持ちはそもそもありません。ただし、その価値観をあくまでも一般化し、こちらも同じ価値観を持って見なくては「いけない」という強制になるのであれば、御免被りたいところです。
彼らの「理念の正義感」は時に高圧的、強制的に見える所があります。
ただし、その正義感が、本当に正しく集められた情報によって、正しい分析がなされ、正しい「良心」に基づく思想心情から判断した、絶対に本当に間違いのないものであるものなのか、よくよく内省すべきだと思います。
まとまりがなく、さらに長文となってしまいましたが、今般の人心の焦りとも言える世界の感応について、感じた事を綴りました。