轉戦記 第4章 終戰編 復員命令降る

 土埃に塗れての突貫作業で、ノンホイの病院建設を終り、再び敷島の宿営地に帰ったら、五月一六日突如として、内地帰還の命令が伝達された。五月十九日現地を出発との事で、部隊全員夢かとばかり躍り上って喜び合った。然し出発迄に「現在の宿舎の一切を取り壊し整理して、井戸から便所、其の外堀ってある所は全部埋戻し、総てを原形に復せ」との事である。我等はまさかこんなに早く帰還出来るとは誰一人として思っても居なかったので、出来得る限りの節約をして貯えて置いた食糧や砂糖類の仕末に困り、此の全部を井戸の中に埋め込んでしまった。此の地方の井戸は、雨期の間は一メートルも堀れば水が出るが、渇水期には二十メートル程も堀り下げぬと水は出ないので、渇水期になると水位が下がるに連れて井戸を堀り下げるので、水には非常に不自由であった。我々は此の作業を、僅かの時間で完了させねばならぬ為めに、三日間徹夜で連続作業を行なった。五月十九日午前四時、此れ等の作業完了と同時に、悲喜交々の想出多き敷島の地に別れを告げて、英軍の指示する処の、所持品検査場に向け出発を開始した。所持品検査場に到着すると、日中直射日光の照り付ける、日蔭一つとしてない灼き付く様な広場に、四時間も待たされた上、真っ裸にされ、所持品検査や、思想調査を入念至極にされた。此の検査をしたのは、英軍の士官学校の生徒との事であったが、貧しき中にも僅かに所持して居た、時計や貴重品の類を、掠め取られた戦友も少なくはなかった。私は痛感した。不幸にして此の度は、日本と英軍は互ひに干戈かんかを交えて戦ふ破目とはなったが、明治以来此の両国間の交りは、浅からぬえにしでもあった。然かも日英両国共に、総ての共通点に相通じて居る国は他になかった。即ち、共に本国は小さな島国であり、国歴の古きも、皇室を有する事も。そして我が日本に、大和魂の根源をなす武士道が有るが如く、大英帝国には、誇り高き騎士道がある。然かも自他共に認ずるゼントルマンの国ではないか。それに何んぞ乎、一敗血に塗れて還る敗者の我等に、あたかもそれが死者に鞭打つ如く、言わしむれば海賊行為と云はれても致仕方あるまい。「人の世の流転は無窮。国の栄枯はさまざまであるぞ。」私の憤懣はやる方なかった。此処での検査が終り、此の日は英軍より支給された只一握の飯を食って、豚さえも逃げ出しそうな検査場の仮小屋に一泊した。翌朝三時起床、直ちにプラチンブリーの駅に向け出発した。此処からプラチンブリーの駅迄、約三十六粁の道を行軍したのである。太陽の出る迄の行軍は快調に進行したが、南国の夜明けは早い。やがて暑い太陽が頭上に照り付け出すと、バタバタと倒れて、行軍の隊列から落伍して行く者が非常に多くなって来た。敷島の宿営地区の撤収作業に、三日間寝ずの連続作業をした上、昨夜は僅かに一握の握り飯を食べたきりで、他に何も食べて居ないのである。総ては、疲労と空腹が原因である。然かも目的地プラチンブリーの駅迄、僅かに八粁そこそこの地点迄来て此の有様であった。行軍隊形は乱れて、三三、五五、となり、全員必死になって、フラフラし乍ら前に進もうとして居た。

 私は、「此んな事では、皆んな死んでしまふ」と思ったので、他の一名の戦友を連れて、林の中の一軒の民家に立寄った。シャムの田舎の民家は、隣家が二百メートル位いもはなれて、林間に点在して居るのだ。立寄った民家には、老婆と若い娘の二人が居た。私はシャム語が片語かたこと乍らも話せる程になって居たので、此の娘を「絶世の美女である」と褒めて喜ばせて置いて、持って居た被服を与えて、「酒か、何かないか」と話したら、米焼酎と、青いマンゴの焼酎漬けにしたものを呉れた。此のマンゴの青漬けは実に美味しくて、栄養価も高いものであった。このマンゴの青漬けを、二人で雑嚢に一杯宛詰め込み、路上に倒れて居る戦友に、元気付ける為めに、一個宛配って行った。適当にアルコール分を含んで居る此のマンゴの青漬けは、此の様な疲労には実に良く効く即効薬であった。私がプラチンブリーの駅に着いたのは、正午頃であったが、まだ幾人も到着しては居なかった。私は、「後から到着して来る者に、直ぐに食事をさせてやらねば」と思ひ、既に到着して居る者を励まして食事の準備を急いだ。だが全員到着したのは、夕方に近い頃だった。帰還準備で幾日も不眠不休の上に、食事もロクロクにさせず、其の上無理な行軍をさせた英軍に対し、皆んな不満を洩らして居た。「嘗てビルマ方面の戦線で、日本軍に散々な目に遭った英軍のマウントバッテンは、寺内大将以下南方方面軍を、憎く思って居たのだろう。」と…… 此の日は駅の附近で野営をしたが、夜になると周辺の土民が、愈々日本に引き揚げる我等と、物々交換をする可く、煙草や菓子の類を持って来て、其処彼処そこかしこの藪の中で交換の取引をして居り、その光景はまるで夜市の様な賑やかさであった。

 私は此の地方に、蓮の葉で巻いて作った、香り高い煙草が有り、その煙草を是非手に入れ様と思ひ、一人で藪の中に入り、探し求めて居たら、突如十名余りの男ばかりの土民に囲まれ、刃物を突き付けられた。彼等の刃物は、まるで我が国の薙刀そっくりの長い刀身に、短い柄の付けた物で、此の切れ味は、顔の髯が剃れる程のものである。一瞬私は此の危機を如何に切り抜けるか、たじろいで居た。すると女の声がして、つかつかと私の前に二十一才位いの女が出て来て、この強盗らしい男達を制し、私に話しかけて来た。私は片言のシャム語と手真似で話して居たら、彼女は南支那の広東に居た事があるとの事で、遇然にも私も軍隊入営以前に、広東に行った事が有り、彼女と私は片言の広東語交じりの話しもした。それが幸ひして、彼女は急に私に対し打ち解けた態度になり、私を助けてくれた上、仲々に数少なくて入手困難な、蓮の葉巻煙草も手に入れてくれた。彼女は此の辺の女大将であったのかも知れない。私の目には此れ程素適な女性には、又とお目にかかる事はあるまいと思ふ程の美人に見えた。

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