轉戦記 第二章 中支編 宝慶戦④
未明に飛び起きて一同軍装を整え、渡河点に出て見たら、我が工兵三十七聯隊の第二中隊が渡河作業をして居た。 此の河は、我等が昨日迄作業して居た資江の下流で、我等の渡河点と異なり、河の水巾も広くて深く、水量も非常に豊富で、流れもゆるやかである。 渡河も、民船の五十頓余りの大きな船で作業して居る。 我等は直ちに対岸に渡して貰ったら、聯隊長が態々、我等を出迎えに来て居た。 滅多に笑顔を見せない部隊長だが、ニコニコして非常なご機嫌である。 一同整列して桑本小隊長の報告が済んだら、部隊長から此の度の舟橋の架橋作業と、敵前渡河作業の功績を非常に賞讃された上、配属されて居た歩兵二二七聯隊長よりも、感状が授与されたと、喜びを包み切れぬ表情で傳えられ、尚本日限りで歩兵二二七聯隊の配属を解かれたので、「更に新らたな任務に向って粉骨努力せよ」との訓辞を受けた。 我等は此の地点で暫く待機の上、昼食の準備をする事になった。 宝慶城内では、まだ残敵掃討中との事だ。 我等は、昼食を終えても命令が出ないので、夕食分も飯盒に炊いて準備した。 タバコがないので、民家に乾してあるタバコの葉を、湯に通して火で炙っては刻んで居たら、「城内に向けて行進せよ」との命令を受けた。 此の日の為めに、あらゆる難苦を乗り越えて来た。待望の宝慶城内に向け、一同は出発した。 工兵隊の宿営地は、宝慶場外に在るので、我等は城内に入る機会を得なかったが、通る道々、如何に戦闘が激しかったかは、山や野の姿の変わる迄に砲弾の炸裂した痕を見て、窮ひ知る事が出来た。 甚しい所では、一米平方当りの面積に一、五発平均の砲弾が落ちて居り、此れは敵の砲弾だが、その殆んどは不発弾である。 此れが全部有効に破裂して居たら、友軍の被害は測り知れない甚大なものとなって居た事であろう。 我が工兵隊に、肉迫攻撃を受けて半壊した敵のトーチカ、或ひは、ひっくり返って居る敵の砲軍。 砲弾に屋根をもぎ取られた壁だけの民家、戦争の罪悪は、容赦なく地獄絵巻を展開して居る。 我が工兵隊も、既に残り少なくなって居る定員の中から、又もや此の地で多くの戦友を失しなってしまった。 鈴木中尉を長とする工兵第二中隊は、鈴木中隊長以下二十名余りが、一軒の民家の中で、只一発の敵の砲弾の為めに、鈴木中隊長以下壮烈な戦死を遂げられたのである。 戦場に於て、然かも広大な支那大陸の敵中に於いて、我が日本軍の存在は、米粒程もない、只一個の点でしかないのである。 その点でしかない日本軍は、大海の中を只一本の棒で掻雑る如く、四面これ敵中の支那大陸を、戦闘し乍ら前進して居るのである。 此の様な情況下に於いて、一人でも多くの友軍が欲しい時に、身近かな戦友を次々を失って行くこと程、悲しく、淋しい事はない。 先に栗山巷の戦いに、荒武中隊長が戦列を離れ去り、今亦鈴木中隊長が逝く。 我が桑本小隊でさえも本来なれば、一ヶ小隊は三個分隊編成だから、少なく共最低六十名は居なければならない。 それが現在人員「小隊長以下十三名」である。懐しの第一中隊の宿営地に着いたのが、暮色迫り来る頃であった。 荒武中隊長から是沢中隊長となった是沢第一中隊長に、先ず挨拶の後、各小隊の戦友にお互ひの無事を確かめ、且喜び合ひ乍ら皆んなに会って廻った後、割り当てられた民家に宿営した。 夕食を終り「やれやれ」と用事を済ませて腰を落ち着けたのが夜の十時頃だった。 「ホッ!」と一息する間もなく、是沢中隊長の呼び出しを受けた。 「今頃何事だろうか?」と思ひ乍ら中隊長の所に行ったら、隊長は「疲れて居るだろうが、資江に架けた舟橋の設計図面と設計書を、師團本部に提出するから明朝迄に作成して呉れ。 その設計書類が出来上ったら、吉報を知らせる」との命令を受けた。 「やれやれ」と、宿舎に帰り早速無中で架けた舟橋を設計書を、記憶を辿りつつ大急ぎで徹夜で書き、出来上がったのが朝の五時だった。 早速中隊長の所に提出に行ったら「ご苦労さん、宿舎でゆっくり休んで居てくれ。 後で嬉しい命令を通達する」と是沢中隊長に言われた。 宿舎に帰ると「なんの吉報か知らんが、俺に取って一番の吉報は、目下の処先ず眠る事に在り」と横になると、忽ち深い眠りに落ちていった。…… 幾時間眠ったであろうか、戦友に呼び起こされて、言はれるままに中隊長の所に行ったら、「北支那に、今年度徴収の初年兵が、内地より来る様になって居るから、初年兵を受領に行き、或る程度の教育をした上で前線に追及して来る事」との命令で、明十月六日早朝に、三十七師團の各部隊から選抜された初年兵受領者が集合の上、即時北支那方面に向けて出発との事と傳えられた。 私は「こんな馬鹿気た、嬉しい命令なんてあるか」と憤慨して、中隊長に再人選を申し込んだ。 此の前線から遥々徒歩で、北支那迄も敵中を突破して、果して行けるものやら判りもしないし、第一行けた処で、再び此の部隊に帰って来て、懐しい戦友に逢ふ事が出来るなんて、夢にも思えられない。何うせ死ぬなら皆んなと行動を共にして死にたいと思ひ、再三隊長に喰ってかかったが、是沢中隊長は「此の重大任務を、誰なら果たす事が出来るかと云ふ事を、よくよく検討した上で選任したのだからどうか無事任務を果たしてくれ」と頼み込まれて、嘗つての教官でもある中隊長の命令に、仕方なく、一寸先も見当もつかぬ気長い任務を引き受けてしまった。 戦友は唯単純な気持で、初年兵受領に行くと云ふ事をしきりに羨ましがるが、私は「皆んなとも、此れが生き別れとなるであろう」と覚悟して居た。 現在第三十七師團光部隊は、北支那の運城を出発して、中支那の武昌で、戦闘で半減した兵力を補充して再出発した。 今亦打ち続く戦闘で、戦死や戦傷者、或るひは病気や苦るしい行軍の為めの落伍者等の為めに、その戦力は又も半減状態にあるのだ。 作戦の完全遂行には、優秀な兵員の増加以外に術はない。 武器弾薬すら、内地からも後方からも送って来ないのだ。 前線から前線にと、毎日急行する本隊に対しまるで反対の方向の北支那に向って、幾百里も後退して、初年兵を受領し、再び此の前進して行く本隊に追及しなければならぬのだ。 然かも尚それ迄には、弾丸一つ撃つ術すら知らぬ初年兵を、戦闘の役に立つ迄に教育仕上げて置かねばならぬのだ。 敵中突破、襲撃、戦闘、あらゆるものが此の行程に待ち構える事であろう。 無力な初年兵を無事に一兵でもより多く、本隊に追及させねばならぬ。 思ふだに責任の重大なるを痛感する。 明くれば一九四四年十月六日、肌寒むき中支那宝慶の野に戦友と涙の別れをなして見送られつつ、長途の任務に向って出発した。 「明日をも知れぬ戦野の戦友よ、希くば再び逢ふ日迄無事であって呉れ。 我も亦、生き抜きて皆と逢わん。 譬金城鉄壁の障碍あらばとて、踏み破りなん任務達成迄は」と、決意も堅く第一歩から踏みしめた。
一九五二年 十一月二十七日 大雨の夜記