轉戦記 第一章 北支編 入営から
一九四三年 一月十日 熊本二十二部隊工兵聯隊に入営した。 正月だったからか、思っていたより食事の程度はよかったが、咽頭には通らず、ドンブリ一杯の飯が大抵は余る仕末だった。
雪の熊本は寒むかった。五日間だったが、身体検査や、雪の中に腹這ひになって、小銃の取扱ひを訓練させられた。私達の班長は、私と同郷の一ノ瀬玄米伍長で、まだ野戦に出た事もない、と云ってゐたが、頑張ってゐた。忘れられないのは、健軍病院に血液検査に行く途中、軍歌を唄はせられたが、皆んな良く知らないので、出来が悪かったと云う事で、寒風の中、十糎(センチメートル)余りの積雪の上を、健軍病院迄走らされて、参ってしまった。明治時代に作ったらしい、長いダブダブの外套は、袖が手よりも十糎以上も長く、その上邪魔臭い帯剣が重かった。夜は、毛布五枚を封筒の様に丸るめて、板張りの上に寝るのだが、寒むくて眠れはしない。教育係はベッドの上に温く温くと寝て居るのだから癪にさわる。「靴下は抜いて寝ろ」「毛布の敷方はこうだ」と、型通りに無理にさせる。軍隊と云ふ処は、不必要な無駄ばかりさせる処だと思った。
入営して六日目の十五日の夜、聯隊の見送りを受け、勇ましいラッパに歩調も軽く熊本駅に向かった。引卒者は最前線から我々初年兵受領に帰ったと云う人達で、流石にキビキビした動作の中に逞しさを感じたが、一挙一動 唯怖いばかりだった。 列車に乗り込んでからは、スパイ用心の為と窓を開けさせなかった。 可愛相なのは見送人で、我が子との生別をガラスしにする有様だった。
十六日未明 下関駅に到着、駅で寒さに震え乍ら乗船迄待機した。関釜連絡船金剛丸で八時間、十六日の夜朝鮮釜山に上陸した。 生まれて始めて、大陸の広軌鉄道で朝鮮を通過した。国境の安東を過ぐると、愈々(いよいよ)寒さも厳しくなり、車窓の二重ガラスを通して、冷え冷えとする。見渡す限りの荒野には、緑の草木とて一本もなく、葉のない 枯れた様な木に、氷の花が美しく咲いて、僅かに旅情を慰めてくれる。 大きな駅々では、湯茶、食事受領がある。そのたびに、飯盒をガチャガチャやって、ワイワイ騒ぎ、実に賑やかだ。 停車時間が長いときは、ホームに出て、上半身裸で体操をやらされる。寒むくてたまらないから、一生懸命身体を動かし大きなかけ聲をかける。奉天、錦洲を過ぎ、満支国境の山海関を通過、天津で同胞の歓迎があり、此のときに貰った、甘い羊羹の味は永く忘れられぬものであった。此の辺りから、一同汽車の旅にも飽が来て、水筒を紛失したり、手袋を失ったりする者の続出で、喧嘩も始まり、車内は喧噪になってきた。 此の頃 輸送指揮官から、我等の目的地は北支那の最前線たる「運城」である、と聞かされた。 下関を出発して一週間ぶりの一月二十三日、目的地の運城に到着した。 地上に立ったときは、なんとなく「ホッ」とした。 銃聲も砲音も聞こえない最前線の静かさが、私の強く想像して居たものに対する、違和感からであろう。