轉戦記 第二章 中支編 宝慶戦①

 宝慶の手前、四十粁程の地点に到着すると、此処で各部隊は師團長より命令を受領して、夫々の任務に基づき攻撃準備に移った。 師團長は長野裕一郎中将であった。 私達桑本少尉を長とする第一小隊は、歩兵第二二七聯隊、皆藤部隊の配属となった。 宝慶の手前十二粁程の地点にある資江と謂ふ河を偵察して、此の河より攻撃部隊を渡河させる事が、我等第一小隊の任務であった。 早速聯隊長も一緒になって、此の河を偵察した処、意外に川幅も広く水の深さは急流の所為せいもあって、測り知れぬ深さであった。 然かも対岸は絶壁になって居り、その絶壁の上は平坦地の様だが、五十メートル間隔位いにトーチカが構築されており、追撃砲、重機関銃等の火器を数限りなく整列してある。 容易ならざる大任である。 聯隊長以下一同の綿密なる作戦計画の下に、此の河に舟橋を架ける事になった。 然し、此の山奥では舟橋に足る丈の舟もないので、歩兵部隊に協力して貰ひ、農家が籾叩き用に使用して居る二メートル四角で深さ五十糎程の深さの木製の箱を集めて来て、此の箱四個を一列に並べて杉丸太で両側から抱き合わせ、部落から取外して来た電線で縛り付けて、一隻の舟とした。 箱の板目の隙間には船茹(のみ)に使ふ槇皮まいはだもないので、綿を代用にして詰込んで急造船とした。 河から集めた本物の舟ともに、百隻程の舟が出来た。 舟橋用のメーンワイヤーは、八番鉄線を撚合よりあわせて作った。 碇の代用として、金網を手で編み、十文字に組んだ丸太の尖端を削ったものを爪として、丸めた金網の中に入れ、これを蛇籠だかごとして中に石を詰込み、重さ一頓程の碇として造った。 数日をかけて、此れ丈の準備が完了した日の夕刻、宵闇迫る頃から歩兵部隊に、此の舟を百隻余り全部肩に担いで貰って、二十五粁も先の渡河点迄前進した。 丁度眞夜中頃から雨となり、渡河点に着いた時には土砂降りとなった。 渡河点の直ぐ手前に小川が有り、水もないので敵の目を避けるには格好の場所と見て、此の川の中に舟を置き、全員此の小川の中で朝の五時迄待機する事になった。私は此処に来る迄に通った部落で、タバコの葉を乾してある丸い「バラ」を見付けたので、「雨傘代用にでも」と思って持って来て居たので、それを頭に乗せて坐ったまま眠ったが、タバコの汁が目に入って痛くて困ってしまった。 四時三十分、起されて見ると驚いた事には、休む前には水もなかった此の小川に、「ゴオーゴオー」と音を立てて水が流れて居る。舟の中も水が一杯で、私達も坐ったまま休んで居たので全身水浸しだ。 疲れて居るので、水の中でも眠る事が出来るのである。 愈々工兵の華たる渡河戦だ。 歩兵の銃と工兵の水棹は物こそ違え同じ武器だ。 此の水棹一本に、舟の中の歩兵全員の生命が賭けられて居るのだ。 第一回の静粛渡河は、敵にも発見されず無事に成功した。 第二回第三回と繰返す中に、敵も漸く気付いて銃火の火蓋を切って来た。 既に渡河して居た歩兵は、絶壁を攀登よじのぼり此の敵に果敢なる攻撃を開始した。 我等工兵は、敵弾の飛来する中を、眞裸で舟を操つる。 一兵でも早く、多く、渡河させねばならぬ。 其の中に、急造の舟の悲しさ、対岸に着かぬ中に舟の中に水が浸水して、沈没するのが出たりする。 背嚢を背に、重い弾丸を身に着けた完全軍装の歩兵は、身動きも出来ず急流に呑込まれて行く。 然し、これを救ける余悠もなければ、許されもしない。 其の中に夜も完全に明けて、明るくなってしまったので山砲隊や、重機関銃隊等の馬の有る兵科には、馬と共に泳いで渡河して貰ふ事にした。 馬のたてがみにしがみついて渡る者もある。 舟は舟で櫓がないので、水棹一本で水の流れに沿ひ乍ら渡河するのがやっとの事だ。かくして、敵弾の飛び来る中での、最も忙しい渡河作業は午前中には大体完了した。 然し今迄渡河した部隊は、ほんの戦闘要員だけである。 まだこれから、砲兵部隊、弾薬、大隊行季野戦病院隊、等々の主力が一秒も早く渡河せねばならぬのだ。 私達は、食事すらする事も出来ず、引続き架橋作業に取りかかった。 敵の追撃砲弾が盛んに飛んで来る。 河の巾は八百メートル程だが、水の流れて居る部分の巾は九十四メートルだ。 然し此の水の流れは、岩に突き当ってはしぶきを上げて逆巻く激流である。 其の上水深は測り知れぬ程の魔の河である。何の機械力も持たないままに、身体一つで、此の河に舟橋を架け様として居るのである。 軍隊には不可能と謂ふ事がない。 我等は敢然と此の難作業に取組んでいった。 然し残って居る工兵のその数は、桑本小隊長以下僅かに十三名だ。 歩兵部隊三千五百名の援助有りとはいえども、此の兵は夜間しか使えぬ。 然も直接の架橋作業には役立ちもしない。 然し十三名一丸となって、黙々と敵弾の下に眞っ裸のまま、先づワイヤーロープを対岸に張り渡す作業に取り掛かった。

      一九五二年 十月十五日 雨の夜記

画像1


いいなと思ったら応援しよう!