ゼロ次元「加藤好弘」に関するメモ その3 『野性と文化をシャーマンするトリックスター、キャバ研構造論』
1977年、加藤好弘は、『月刊USUKURA 0号』に、「野性と文化をシャーマンするトリックスター、キャバ研構造論」を寄稿した。
『月刊USUKURA』は、翌年より数冊発行された、個人編集による手書きガリ版刷りの発行部数は50~100部ほどの小冊子で、主に編集長やその友人たち、加藤好弘の人脈ネットワークに配布された。
時系列では、このエッセイの後になる「夢の暴走族宣言」(月刊USUKURA創刊号)1978を『ゼロ次元「加藤好弘」に関するメモ その2 夢解読について』の参考資料に添付してあるので、ご参照ください。
今回ここで紹介できるのは、その前年『月刊USUKURA 0号』1977に加藤が寄稿したエッセイで、当時の編集長が手書きから書き起こした原稿に、語句の混乱や間違いを校正し、文意不明な文章に注釈をつけたものである。
<背景>と<内容>について、簡単に記し、ご紹介したい。
<背景>
1970年に万博破壊共闘派を組織して、万博会場に向けて全裸パフォーマンスを繰り出していた加藤好弘は、わいせつ物陳列罪で逮捕され、勾留の後に罰金を支払って釈放された。
わいせつ物陳列罪で権力と戦うことを宣言していた加藤の面目躍如だったが、この後、パフォーマンスなどの表現行為については、公安からの監視の目が厳しくもなっていった。
翌年の1971年~72年にかけては、全共闘運動などの学生の反乱でバリケード封鎖されていた大学構内でパフォーマンスを繰り広げた。反乱を起こしている学生たちとパフォーマンスを通じて会話をしてみたかったというのは、後の加藤の発言である。
この会話に成果があったかは、直接語ることは無かったが、70年代のヒッピーたち若者については、「骨がなくて、やってるだけという感じで、魂が抜けてるね。ふりでやってる。ちょっと薄い人になっちゃったね。人間が目先だけになっちゃったよね。一貫性がないのよね。その場その場なんだ。」(日本美術オーラルヒストリー 加藤好弘後編)と語っている。
1971年の夏ごろから、ゼロ次元ホールにひとりの高校生が顔を出すようになった。やがて、この高校生は、友人たちも連れてくるようになり、この高校生が大学生になり、1970年代の半ばころには、ゼロ次元ホールのメインのメンバーは、彼らになっていた。
加藤は、70年を境にして、それまでの芸術家人脈、マスコミ人脈から距離を置くようになっていた。逮捕で幕を閉じた万博破壊活動などを通じて、それまでの人間関係に限界を感じはじめていたことと、『ゼロ次元「加藤好弘」に関するメモ その1』に書いた理由が大きいだろう。
また、九州派の櫻井孝身から提案された新しいビジネスを加藤が経営者である明星電機株式会社で始めるにあたって、20歳前後のアルバイトをゼロ次元にゆかりのあるひとたちに募集したところ、社会人に混じって大学生たちが入ってきたこともあった。
この大学生のなかの中心メンバーの一人が、マスコミからの取材に「慶應義塾大学キャバレー研究会」(通称キャバ研)というサークルをつくり、発信しだした。家長制に縛られた男女関係をもっと生き生きとした関係に転換することを心理学や考古学、文化人類学などの視点を生かして目指すという主旨に興味を持っているメンバーが集まり、およそ実際の水商売に通う学生はいなかったが、時代遅れのキャバレーをお坊ちゃん学校の学生がとりあげた面白さで、マスコミでも話題になり、新聞雑誌テレビなどの媒体にも取材されるようになった。マスコミを通じて主旨が伝わることはほぼなかったが、ほかの大学にも波及し、早稲田大学キャバレー研究会も発足していた。
やがて、このキャバ研のメンバーの多くがゼロ次元ホールに出入りするようになり、明星電機の新規事業も手伝うようになってゆき、加藤との交流が密になっていった。
1977年は、加藤とキャバ研の交流が深まった時期であり、発足したばかりのキャバ研に加藤から送られたエールがこの「野性と文化をシャーマンするトリックスター、キャバ研構造論」エッセイである。
キャバ研は、80年代にはいると、メンバーの大学卒業などがあり、弱体化し、自然消滅していった。後継者を作れなかった大学サークルの末路であり、キャバ研の活動が大学のサークル活動の中に収まった現われでもあった。
ただ、ここで加藤と交流したメンバーの多くは、加藤の夢解読研究にも参加し、加藤の夢解読の本の出版記念公演のときには、バンドやパフォーマーとして協力し、81年ごろまで、ライブハウスや画廊、ゴールデン街や三丁目の居酒屋で行われたタントラ儀式にも欠かせぬスタッフとなっていった。
<内容>
この8000字を超える長いエッセイをわかりやすくするために4つに分けてみることにする。
(1)は、導入であり、人間の文化は言葉からなること、言葉によって、自然や動物から人間が分離区別されてきたことが語られる。そして、人間を中心とした文化では、自然の代名詞は、未開人、麻薬、有色人種、異性の性器に被せられる、とする。
ここで、文化の中では、性器が人間の肉体の中で特に自然として分離投影されていることを指摘するのは、加藤の特徴であり、今後の展開のキーとなる。
なぜ恋人である異性が自分以外の異性と性的な関係を持ったときに精神が混乱するのだろうという問いから、恋人の性器を私有化していることが指摘され、その私有化という制度は、文字の発明と同時だったことがたどられ、文明の発展と性器の私有化の平行が語られる。「 自己の文化的劣等感の高い者ほど「性器」を異常に不潔視することにより自己の文化性を 高めると錯覚し」、「自からを家 畜化してしまい配偶者ともども所有ー被所有関係としか人間関係をとらえられぬ奴隷因果地獄に定住する」という現代文明の男女関係への描写になる。
ここまでが、前提。
(2)は、キャバ研論に入ってゆく。
キャバ研は、結婚制度と売春制度を裏で保証しているキャバレーという制度に加担しているのかが問われる。キャバレー制度が象徴する制度は、未開民族を保護地区に閉じ込め、肉体の自然である性器を排他した制度と同じであり、そういう制度の文化圏でキャバ研はトリックスターとして機能しているかが問われている。
ここで、特長的なのは、「未開人保護地区、キャバレー、大学制度はまさに一直線に通過する同質的同一性として認識さ れること」であり、これを読んでいるアナタもこの同質的同一性ブロイラー装置のなかにいるニワトリであるという、キャバ研を越えた問題提起である。
(3)では、「野性」がすでに疎外拒否された現代社会という平面的限定的地区に生活する僕たちがめざすところはどこかが問われる。
「この平面的限定的地区を意識の有限世界とすれば、不可視な無意識の世界は無限界を想像させる。」
「意識的具現世界でのみ思考体験してきた現代人に、無意識的抽象世界を二元方程式、立 体の思考として架設した(フロイトの)心理学は、宇宙的恐怖とエクスタジーの狂気な混乱を人間に強迫した。 自然をあれほど拒否し魔性として排他してきた人類が、再びその野性を振り返り思考しようとした。」
一気に無意識との関わりを媒介とした新しい文化をつくり出そうとする提案が始まる。
「初原の人類が文化を開発する旅に勇気をもって出発 したように、既存の文化のかわりに再び自然を正面から振り返りはじめたのである。」
「1960 年代に肉体の狂気をメデアとして野性復活を体験しはじめるアメリカンに対して、フランスで同時期に思考されたのは」、「意識から無意識を思考した心理学的方程式による自然喪失させる変化至上主義から、文化対自然の区別のはじまりへの逆算を、歴史以前の言語発生地点から遡ろうと」とする方法だった。
無意識に飛び込んで新しい意識を作り出す方法ではなく、意識から無意識に向かう方法論も提起され、両者の融合論としてのアジアが欧米で発見される。
そして、アメリカやヨーロッパから「その野性と文化との融合的合体としての人類の希望を「東洋の世界」に求めているとき、我々は「東洋」そのものが行方不明になって西洋で も東洋でもない加工商品というロボトミーにお化け(人工楽園化)していった。」
「いまこの楽園で本質的に主体を取り戻すためには、人生を客観的に観る行為、すなわち、自然という我々が喪失した知覚を自己内 に架設(仮説)しうるイマジナションへの各種の集中的行為なしにはありえない。」
ここで、夢解読以降に重要な方法となる「自己客観視」が登場してくる。
「自己の存在を客観視することとは、人間にとって特有の文化的行為で」あり、もともとは「自己を視ることが永久に不可能な動物的存在者でもあった人間が、その動物的自己不可視を可視にした文化作用」であり「他者への観察であった。他者の動作、習慣と自己の習性との類似を隠喩(たとえ)として発見して、はじめて他者を通して自己を発見するという、人類の原初の知的作業が人間の中に文化を開発した。」
自然と文化を区別対立させ、人間中心の文化を作りあげた人類の原初的知的作業を加藤は、己なりの思考のなかで抽出してゆき、新しい原初的な知的作業を問いかけてくる。
(4)は、その新しい知的作業の提案となる。キャバ研は自らのトリックスター性を自覚しているかという話から、読者がトリックスター性を把握し、自己革命を起こす方法論に入ってくる。
この結論部分では、加藤は高揚感に任せて、今まで以上の飛躍を平然と行っている。
ふたつの確認から入る「外的意識界に求める術のなくなった不毛な地点で、我々は今、内的自然界への旅をはじめようとしている」ことと「まだ手がかりはあるのだ。それは僕達の肉体であった。」ことだ。
この後は、加藤好弘の躍動する原文にあたっていただきたい。
加藤好弘を知る人は、やはりこれかと言うだろうし、加藤好弘を知らない人は、このあとの飛躍に驚かれるかもしれない。
稀代の騙り屋であり、時代遅れのパフォーマーであり、教師のような油絵画家であり、内的宇宙の思想家であり、内面の永遠の革命家であり、へたくそな煽動家でもあった、加藤好弘の思考から表現への原石を感じさせるエッセイをおすすめしたい。
(20245.01.16)
⑴
これを、偶然にしろ、必然からにしろ、手に取ってくれたアナタと僕とが出会うためには、マ ズ言葉の共通の認識がなくてはならず、共通の知的意味作用がアナタと僕とになくては、一方的 にメッセージを送り続ける僕は空中に浮いて淋しい。意味が不明のまま読まされるアナタはもっ と苦痛で、もっと淋しい。
そしてここから 分裂と細分化がはじまるから。
コミュニケートするときに言葉を使うのが人間であるけれど、人間と動物との違いは唯一ツ、言葉を使用したか否かだけであった。
蟻にもし言葉があれば、蟻塚には地下鉄が走っていただろうし、サルが言葉を開発していたら、 ニグロ対白人の闘争以前にサル対人類の争いが同質の武器で発生していただろう。
話し言葉を記号化して文字を開発した人間社会は石器時代から現代に通ずる銅·鉄を使用する 文明を伝達させた。言葉を文字化できないでいた人間社会は、現代にあっても石器時代のように原始的未開発な民族として存在している。
同じコード(共通意味作用)の約束を記号化して作ってきた人間の「言葉」は、つまり意味の交流は、歴史的に遡って考えてみると大変な出来事であったことが解るのである。印刷術が 開発されてからの歴史とそれ以前とに区別しても恐ろしい社会変化があったし 石や木に記入し た時代と紙が発明された時代との区分でも、その以前と以後とでは人間の生活には驚くべき変化 がみられる。
人間と動物、人間と自然との区分はまさに言葉を所有したか否かに区分される。
人間を 生態的にみれば、その肉体は自然の原理そのままである。そんな自然体から作られている人間が 言葉という文化を作ることにより、自然と文化という区別をつけた。
洪水、地震、天候等による自然の脅威にさらされてきた人類が、自然を魔性としてそれに対抗 する反自然な文化を異常発達させてしまったその頂点に、いま僕達は出現しえているところから コノ小論ははじめられている。 だから「自然」という言語(=概念としての言葉)には、人間にとっては恐怖、不明、神秘狂気、野性という意味があ る。そして自然を魔性として自然を排他的に退けてしまった現代加工世界がアッと出現してしま った。
自然開発といって、人間の未開(と呼ばれる)民族をことごとく破壊しつくしている歴 史的事実に加担している人間中心思想は僕達自身の姿でもある。 現代人が未開人に対して異常に反発するのも、麻薬に対して犯罪視するのも、それは現代人が ニグロ、インド人、東南アジア人等に、アメリカンがインディアンに対したような、 異性の性器に対するようなことも同じである。(我が国では国家の法律で性器そのものをワイセツという犯罪にしており)、わが国も反自然主義にしがみついている知的未開発国であり、過酷に人工加工世界観に執着してい る姿を客観視しえないでいる人工人間(ロボトミー)の姿でもある。
かつて「万国博」という機械文明の進歩と発展という現代文明を美化する地球人類の発展に 、「万国博破壊全裸共斗派」を組織して、万博会場に三百人の全裸集団のなぐり込みをかけて、 「猥亵ワイセツ物陳列罪」で首謀の僕と組織者全員が逮捕された事件があった。 万博と全裸とは文化と野性(=自然)とである。
自然に対する代名詞(未開人、麻薬、有色人種、異性の性器)が、僕達の意識的な感覚からことごとく抑圧され弾圧されていることによ って僕達の社会が構成されていることを見つけることができる。
もっと身近な例をだしてみよう。アナタの恋人である異性がアナタ以外の同性に対して性的 関係を持ったとき、アナタの精神は混乱して、アナタが性器に対して抑圧していた文化と自然と の区分的距離に比例して発狂するだろう。なぜなら言葉から文字という記号を作ったのは、自己 の財産と他者のそれを区分する作用と同時期だった人類史を想出してみればよいだろう。つまり 所有と非所有とを区分するために文字が開発されたというのは、人類の潜在意識を再発見した民族学の 教えるところである。だから文字発生以後に性器は文化と区別され差別され、性器は人間ではな く野蛮な未開発であるべき存在となり、人間から物質的なものに落下した。
人間的価値から物質的価値に取り残された性器とは、人格を持たぬ野性の家畜的存在とみら れ、フロイドが出現するまで文明人の身体の中で旧石器時代をインディアンのように生きなくては ならなかった。 性器が家畜であれば、白人にとっての野性であるニグロが家畜として売買されたように、性器 は売買される商品となった。女の価値は文化と野性との差が大きいほど貴重品である。つまり教養が高くて性器は未開発の処女ほど商品価値は高いのだ。 恋愛関係や婚因関係にある異性がそれ以外の同性と性器コミュニュケートしたことは、例えば 「俺の女を土足で踏みにじった不潔な奴」ということになり、所有地に無断で侵入された感じ、 あるいは「私の財産を強奮するドロボウ猫みたいな女め!」ということになる。性器だけは所有、非所有される資産的家畜感が我々の無意識に人類の言語発生以来五千年以上に渡って伝達さ れてきた「野性の神秘」としての自然性であったことが理解される。
知的交流を会話で求める欲望と、身体的快感を性器で求める欲望とが、同身の肉体として口唇 と性器とで反比例することの矛盾に悩むのは自然界において人間だけの特色である。
結婚という 商取引きなしに試乗することがタブーと化して、既婚者と売春婦からは、契約なしのタダでやらせる 女性が、不潔な交衆便所視させる家畜なみの非人間とみられるコトも、男性女性共通の伝統的知 覚としてある。 すぐやらせる女を血まなこで求めるくせに、安易にパンティを取る女を軽蔑する教養のあると いわれる男の非知性度は、野性と文化とに分裂させられた男の悲劇にあることを学習できなかっ た文明異常発達の被害者の姿にすぎないのである。また逆に非知性的な人間性の欠落度の高い者 ほど、自己の文化的劣等感の高い者ほど「性器」を異常に不潔視することにより自己の文化性を 高めると錯覚し、あるいは文明社会における未開としての性器的な人格者と化して、自からを家 畜化してしまい配偶者ともども所有ー被所有関係としか人間関係をとらえられぬ奴隷因果地獄に 定住する。
(2)
さて、わがキャバ研が「キャバレー」なる性器を売買する,または、明確に性器を人間性から切り 離して、まるで文化と野性との融合をくい止めている現代人の安全弁のような、まるで売春制度 が結婚制度を裏で保障しているような、かなり文化的、非野性的な制度であった「キャバレー」 をなぜ取り上げたのだろうか。
性器に金銭を支払う意味作用とは、以上の人類史的に思考してきたように奴隷の人身売買の思想につながり、つまりは、自然性を排他した文化圏に属する人間による、非文字民族一般を、「野性」(カント=女性器)を金銭で合理化しようとしたような「言語論」なのであった。
キャバ研が、じつは文化人類学や心理学を熱心に学習しているグループであることを知れば 「キャバレー研究会」とは一つの逆説的トリックスター(道化)なのか?
文明国が野性の再現的現象学である「狂人」を管理する保安処分を法律化しようとしているとき、人間の肉体の反文明的存在としての性器を「ポルノ」「売春ビジネス」によって保守しようとする、アメリカのインディアン保護地区やアイヌ観光のようになっている「キャバレー」を、今、彼らと共 に、選んでしまったその直感的無意識を、僕は意識化してみようとする。
彼ら(キャバ研)は最も反自然な人工加工産業にベルトコンベアーされる体系の中に家畜された化学肥料を 過食して飼育されてきたブロイラーコケコッコーであり、死刑決定された囚人が神への帰依を学 習するだけの教育制度のなかにある化学調味料人間である大学生であった。 自由、解放を要求する彼らが学生時代というインディアン保護地区的キャンパス内で、進学地獄と就職死 刑決定裁判に板ばさみされ、つかの間のモラトリアム(執行延期)に精神異常症という室内ランニ ング器に足踏みする姿は「キャバレー」がその文化圏から野性(カント)、自然(セックス)を保護 地区している構造とのアイデンティティ(同一性)である。
未開人保護地区、キャバレー、大学制度はまさに一直線に通過する同質的同一性として認識さ れることが、どうかアナタに伝達できますように、僕の言語の意味としてのコードに早く慣れて 欲しいのです。 キャバレーという中古レンタカーの相乗りゴッコに本質的に熱狂できずに、とまどいつつも、 その自己嫌悪を、あえて「キャバ研」とする彼らの悲喜劇性を一緒に思考していただきたい。
アナタは「キャバレー」ではないと云い切れる存在者なら、アナタはいったい何者ですか?
人間は ブロイラー中古キャバレー以外の何者であったかを、考えて欲しいのです。
この接点を 話し合うのはとてもエロチックなセクシーなことです。
(3)
芸術が自然性の内にある狂気を「芸術」という範疇の檻の中に囲い込んで見世物として家畜化した表現であるように、キャバレーは性器をあくまで野性と知覚するがゆえに、家畜的商取引き の地点に押し留めておくことにより、文化を逆に保障した。文化という教育伝達を学習する大学 生が受験地獄というシステムの内に現代社会の全体系が秘められていることを認識せずに、受験 という体系を潜らされることにより、現代社会に家畜化されてゆく自己の人間喪失体系を、あえ て自己がキャバレーというーツのモデルに身を置き替えることにより、彼ら大学生にとっての何 が野性、自然であったかを、彼らが知覚しえたかが問題となるのである。
むしろ僕達の概念の中に「野性の思考」は現代社会内では、はじめから疎外されて拒否され差別され、特別に保護されたものとして教育されてきたのではなかったか。文化中心人間加工世界が中心の世界観では、自然という概念は去勢された都市文明から我々は出発していたことが想い出さ れる。 一元的平面的な家畜保護地区以外を目隠しされた人間が、その地区内の有限な物質の左と右 との強奪合戦としてのイデオロギー闘争しか知覚できていない範疇での物語コソ、僕達の世界で あり全てであった。
この平面的限定的地区を意識の有限世界とすれば、不可視な無意識の世界は無限界を想像させる。
意識的具現世界でのみ思考体験してきた現代人に、無意識的抽象世界を二元方程式、立 体の思考として架設した(フロイトの)心理学は、宇宙的恐怖とエクスタジーの狂気な混乱を人間に強迫した。 自然をあれほど拒否し魔性として排他してきた人類が、再びその野性を振り返り思考しようと した。人間が言語により自然と文化とを示差して自然そのものから文化が発生して来たった初原 の自然を何重にも記憶喪失してきた頂点で(ある今)、僕達は、初原の人類が文化を開発する旅に勇気をもって出発 したように、再び文化のかわりに自然を正面から振り返りはじめたのである。
ドロップアウトして文明国をすてたヒッピーがLSDに乗って勇気ある家出をして、人間の潜在意識としての内なる旅に出発したように、アメリカを後にし新世界を目指した新航海者達は、そのほとん どが永久に帰らぬ故織喪失者となった。そして、ある者は、もう一ツの保護地区である宗教と精神病院に消え 、ある者は旅そのものが人生と化して定住を恐れるあまり、たとえばインドという仮説だけが 人生となった。かれらは、自然と文化の両極に分裂して永久弁証法の因果律に乗り宇宙衛星のように真空の 同軌道をダルグル回るニュートラル墓場に美しく浮いた。
1960 年代に肉体の狂気をメデアとして野性復活を体験しはじめるアメリカンに対して、フランスで同時期に思考されたのは構造主義哲学の認識方法であった。
アニマ(内なる女性)に対してのレヴィ=ストロースの民族学構造論はあくまでアニムス(内なる男性)としての知的作業であ った。 ハム・ソーセージ的人間が以前の肉体を取り戻すような身体から野性への肉体派をアニマとす れば、意識から無意識を思考した心理学的方程式による自然喪失の変化至上主義から、文化対自然の区別のはじまりへの逆算を、歴史以前の言語発生地点から遡ろうとした文化人類学はアニムス的である。女 性を自然、男性を文化と区分してみれば、男は自然を戻すのにやはり文化的思考からはじめ、女は直接的に自身の生理からそれを聞くだろう。
アメリカンの肉体が、ヨーロッパの知的作業が、その野性と文化との融合的合体としての人類の希望を「東洋の世界」に求めているとき、我々は「東洋」そのものが行方不明になって西洋で も東洋でもない加工商品というロボトミーにお化けしていった。そして我々は人工楽園のカテゴ リー(範疇)内に麻痺してゆき、文化と文明との視点以外を思考しない人間となり個別化、細分化 される体系そのものだけを生きる珍しい人種となった。
この人工楽園コンベアー体系内の主体的人 生とは主体的に商品となる道であってそれ以外ではない。
いまこの楽園で本質的に主体を取り戻すためには、人生を客観的に観る行為、すなわち、自然という我々が喪失した知覚を自己内 に架設(仮説)しうるイマジナションへの各種の集中的行為なしにはありえない。
例えば、病気でも病院と化学薬品を一切拒否して自力の自己治癒力を実践したり、化学調味料 一切を口に入れぬ自然食活動等の中からも、自己の身体の驚くべき奇跡が発見され、化学物質に 強迫的に依存して生かされる以外に道がなかったことを体験し、客観視でき、そのとき同時に身体とはーツ の自立した生命体であることに気付く。
客観視するという認識行為は、自己の存在を客観視することとは、人間にとって特有の文化的行為であるが、あくまで自己を視ることが永久に不可能な 動物的存在者でもある人間が、その動物的自己不可視を可視にし た文化作用とは、他者への観察であった。他者の動作、習慣と自己の習性との類似を隠喩(たと え)として発見して、はじめて他者を通して自己を発見するという、人類の原初の知的作業が人 間の中に文化を開発した。
人類初原の他者とは、自然状態にある動物と植物、天変地異であり、あくまで自然との対比か ら自己発見をした。動植物の人間との類似から人間そのものを客観しえた。トーテムとは人間と 自然との融合された原理、文化と自然との原理の象徴的表現として集団化した人間の生きる原理 であった。
現代人がトーテム化するものはテクノロジー管理体系であってみれば、人間が類似してゆくの は機械ロボトミーであり、自然とロボトミーとの格差は天文学的距離にあって対比的関係が成り 立たない所にある。でも人間はあくまで自然的実体であるから、意識としてのロボトミーと無意識としての自然体は強激な狂気的分裂の中で関係しあい、その狂気でしか象徴されぬコンプレック スと化した自然生命を永久に追放するか、国家が管理するしかないところに僕達は来ている。
自然の抑圧の過剰によってコノ楽園が架設されていて、コレ以外の自然の風圧をささえ切れな い接点に追いあげられ、あと一歩でコノ架設の俗界も空中分解すれすれにあることを知覚している 人々はまだ少数派なのだ。といってアワテテ、その反対の自然を個別にパイロットすると、前に も書いたように宇宙の墓場を人工衛星するはめにもなる両極の危機にある。
僕達は今、何を手がかりとすればいいのだろう。
(4)
わがキャバ研同志の必修ヨーガをあげてみれ ば、玄米自然食、歯唐粉・石鹸を使用せぬ方法、病院、生命保険不用の身体づくり、脱産業への エントロピーの低温日常生活、心理学により意識世界を無意識界よりの個人的自己存在学習、民 族学による人類共通の潜在意識たる神話から初原人類の文化と自然との関係の謎の追求等の、多 角立体的な根気のよい作業により同志のミーティングは、内なる自然への旅を思考している。
外的意識界に求める術のなくなった不毛な地点で、我々は今、内的自然界への旅をはじめようとしている。
まだ手がかりはあるのだ。それは僕達の肉体であった。何十万年単位の無意識界である自 然の声は僕のアナタの部屋に毎日のように訪問している。自然よりの人間への最後のメッセージ は、言語ではなく、感覚で、立体的絶天然色で、もちろん音声付で、毎日我々を内なる旅へと誘 惑する。 あまりに身近すぎて気付かぬ大使/天使の物語。我々の身体が自然の現象であったことを忘れたよ うに、その大使/天使のメッセージを無視してしまったのだろう。
この大使/天使は、まずアナタの個人史的因果律を解き明かすだろう。抑圧した個としての自然から ゆっくり説明してくれて、アナタ自身で百個以上体験したアナタの神話を、アナタ自身で意識化しえ たとき、アナタの大使/天使は、いよいよアナタの身体を本質的初原的太古の人類が集約された、自然 と文化との原理を、アナタの魂に直接メッセージしはじめるはずである。 そして集約された人間の秘密に近づくに従い、アナタの食物、生活、人間関係、対社会への認 識はメッセージと同時変化を要求されるのである。
日常生活革命と大使/天使のメッセージは見事に比例して、日常的自己革命なしにメッセージだけ欲 しいという虫のよい認識ではありえない。身体変化の内にこそ内なる旅はあるのだから、化学薬品 づけの人間にいきなり自然をぶつけて生理的狂人にするようなへマは、コノ大使/天使は絶対しないコト を原理とする。
コノ大使/天使、聖なる体験を奇妙な不思議で物語るメッセージこそ『夢』である。
なぁーんだ、と アナタは笑うかもしれない。夢と神話は自然と文化との唯一の通訳である。不思議な隠喩の共時 性(無時間・予盾出来事)のドラマは、文化異常発達の通時性(時間の中の歴史)にある人工意識で は解読できぬ世界だからだ。 ユングとレヴィー・ストロースが夢と神話との解読に協力してくれるだろう。
僕達はいま夢の 中の事物一切の「国語辞典」を編集中である。アナタの参加を待っている。
さて、わがキャバ研とは、実にアナタの内にあった。
内なる旅を通じて、現代と太古とをシャ ーマン(呪術)するとは、僕達の身体に自然原理を再発見する作業であり、意識と無意識を通行自 由な使者とはトリックスター(道化)的矛盾な「夢」の人物を云う。夢次元の原理を日常次元に具 現化できる人物をいう。 現代と太古を、その不可思議な儀式によリトリックスターするキャバ研のセレモニーは、意識 界に夢の道化性を持ち込み続ける超自然的存在者達の、アナタの意識に「愛のメッセージ」を送 る、もうーツの天使達である。 アナタの内なるトリックスターと僕の道化とが、ふと街頭で出合って、ああコノ出会いは一万 年前から必然としてあったのだとジンジン想い出す、未だかって知覚しなかったラブの出合いを体 験するはずである。受信できたアナタは発信者でもあるから。 街に奇跡が戻りつつある、僕とアナタの内部に次の世界が視えつつある。あいまいな半身不随 にやられたままの身体でいい。出直すのは決して遅すぎてはいない。アナタがアナタに帰り、僕 が僕の内に帰ったとき、アナタと僕は魂(ゼロ)次元で抱き合うコトができる。決してあわてない こと、単独飛行しないで、トゲザーで行くことがコツである。
これは個人的、一部グループ的名 誉を争い合うといった、卑しきエゴイズムの問題ではないのである。この活動の中に内ゲバ的な 旧式の分裂細分化の作用が発生するならば、僕の云う「自然」への意味作用はまるで違うことに なる。近視的動物園的自然観だけの、もうひとつの文明内しか飛びえない、空中アクロバット馬鹿が、体制内のシステムに条件反射して分裂作業して行くにすぎないからである。
今、僕もアナタも、よりダイナミックな自立が要求されている。星座は、一人で宇宙に浮上し えて美しい。自己の知的欠落による甘えから 集団の分裂を仕組む流れ星になる者もいるが、今 アナタは地球次元、宇宙次元から自己の存在を客観視すべき勇者であり、観者/見者として、こ の地上に帰ってきたのだということを、何重にも思い出して欲しいのだ。 アナタは決して孤立できまい。アナタの純化、深化と共に、アナタは魂次元にあった多くの同 志の存在に気付いて驚くはずである。 自己内の盲目性を他者に投影して自家中毒してゆく生理(タイセイ)狂気に安楽する者に、意識界で体制内分裂する者に真のトリックスターは誕生しないのだ。トリックスターのシャーマンと は、狂気といわれる無意識界にある自然の野性を家畜化された現代の文明至上主義という狂気に つきつけつつカンバックさせる作業である。それは、あくまで無意識を知的に意識化する作業で あって、その逆ではない。