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偶成03 不条理な世界から逃げないこと 中条省平「カミュ『ペスト』解説」を読む 

NHK放映(2018)の「100分de名著」という番組のテキストなので、書籍というと少し違うかもしれませんが、この「カミュ『ペスト』解説」を読み、放送を見て、中条省平氏の解説にしびれたので、あえて2018年に読んだ本の1冊として記します。

このテキストのはじめにもありますが、カミュといえば、今や、時代遅れ?の実存主義であり、代表作は「異邦人」であり、その「異邦人」は、不条理文学の傑作と言われながらも、冒頭文の「ママンが死んだ。」のマザコン色があまりにも強いために、「異邦人」もカミュも、マザコンの色合いが強い作品というイメージが残ってしまい、大きな災害をテーマにした文学ということで東北の震災後に一部で話題になっていた「ペスト」も愚かな先入観で読まずじまいできてしまいました。

ところが、周囲の事柄がどんどん古い過去になっていっているなか、未来も不安定感がますます募るのみという混迷したこの時期に、あの読み上手の中条氏が取り上げていたので、手に取り、読むこととなったしだいです。

中条氏の「ペスト」への視点を簡潔に言うと、私たちが対面している不条理な世界にどう立ち向かうかが、どうポジションするかが、描かれている小説、ということでした。

「ペスト」では、北アフリカの地中海に面したフランスのとある植民都市を舞台に、そこで起きたペスト感染の顛末全体が渦中にあった一人物の視点から、医師、役人、宗教者、犯罪者、ジャーナリストといった群像がペストに対処する様を(吉村昭の)史伝のように時系列で克明に綴られています。書き手がだれであるかは、最後になるまでなぞのまま。

個人の実存を主題にしていた実存主義の旗手でもあったカミュが、このような多くの登場人物が描かれた全体小説を書いているとは今さらながら意外でした。

また、主題となるペストの流行は、フランスレジスタンスの闘士であり、自由主義者のカミュの著作ということもあり、先の大戦のナチスのヨーロッパ蹂躙になぞられもしてきました。

これは、今読んでもこの読み方は可能だろうと思います。ただし、ペストという人間への災厄の比喩はもっと深く広がりのあるものであることがだんだんと感じられてきます。

繰り返しになりますが、中条氏の「ペスト」の読み方は、今われわれがいるこの世界は不条理そのものであり、その不条理な世界に対して、どう向き合うか、といったことについて書かれている小説ということです。

「世界は不条理である」という認識は、加齢を重ねるにつれ、手垢がついてぼろぼろに朽ちてゆくどころか、私のなかでは、奥の方からますます不気味な光をギラっと放し続けています。生きれば生きるほどに、世界の不条理さに出会ってゆく、気づいてゆくとでもいいましょうか。

そして、この不条理な世界に対して、若い時と違って怒りを晒すことはなくなりました。ところが、いわゆるオトナになったふりをして、多少もったいぶって、ニヒルに対処してやり過ごそうとしても、不条理はあくまで私のフロントに立ちはだかり、堂々とその不条理を晒し、私のケチな正義感を煽ってくるのです。

私は、政治的闘争にも、社会的な活動にも興味なく、自分の周りに結界を形成し、生活してゆくことを望んでいる小市民ですが、そこにも不条理はやりきれないまでに侵入し、包囲してきます。

したがって、不条理な世界に対する問題意識というよりは、避けては通れぬ、世界の不条理さとどう向き合うかということは、けっこう今でも喫緊の課題ではあります。

ペストの流行蔓延という環境の中で、ひとびとがどう生きてゆくかという群像劇の刻銘な描写をたどることが、私の不条理さへのやりきれなさの凝りを多少ともほぐしてくれることもあったかもしれません。

「実存主義という、人間の悲惨な条件を直視する哲学的傾向のなかにあっても、カミュの場合は、どこかにそうした世界の未知なる多様性がもたらす救いのようなものがある・・・」

ただひたすら、不条理なペストの流行に受け身になって対処してゆく、ペストに対して積極的戦闘的に立ち向かう、逆にペストという災厄を神の啓示として反省して受け止める、あるいは、ペストを利用して私欲私情を満たすということといった姿勢とは、また、違った姿勢をカミュは、描きこんでゆきます。

悲惨な世界の未知なる多様性がもたらした一つの新しい姿勢(スタイル)の提案あるいは発見といえるかもしれません。
この小説のなかでは、ペストに対して自主的な有志による保健隊という活動が始まります。

これは、ペストに対して、個人のつながりをもとにささやかな共同作業をペストに対して自主的におこなうということであり、そこには「連帯」ということが始まっています。

この「連帯」ということばも60年代の政治の季節後の70年代の新左翼の退廃を実見してきた私たち世代には使い古され、空しく響きがちですが、中条氏の解説による、地中海的な明るさと開放性を備えたカミュの文章を通じて、あらためて、「連帯」を読み込んでゆくと、使い古されたかつての「連帯」は、なんていうか大文字の「連帯」であり、もっと弱弱しくその場限りかもしれないし、期限付きでもあるが、瞬間とはいえ、その紐帯はしっかりと個人につながっている限りにおいて、「連帯」とも呼べそうな、小文字の「連帯」というようなことがあるのかといった思いが、ふつふつと身体にわきあがり、そうだな、そうだなと、共鳴してくる感じです。

身体ということばを使用しましたが、カミュという作家は、今回、読みなおしてみると、仏文学者で武道家の内田樹氏が指摘するように、意外なことに身体的な描写が多く、また、その描写が生き生きとしています。

「リウーは、その夜の海がなま温かく、海のなま温かさが何ヶ月にもわたって地面から吸いとった熱のせいだと分かった。(中略)足が海面を叩くとうしろに泡立つ波が流れ、水は腕に沿って滑り、脚にからみつく。(中略)リウーは仰向けになってじっと体を動かさず、月と星に満たされたさかさまの空を眺めていた。それから、水を打つ音がしだいにはっきりと聞こえ、その音は夜の静けさと孤独のなかで異様に明瞭になった。タルーが近づいてきて、まもまなくその息遣いまで聞こえてきた。リウーはうしろを向き、友のところに行き、同じリズムで泳いだ。」

リウーはペスト感染に初期から関わっている医師で、タルーは、旅行者でこの騒動に巻き込まれ、リウーなどの数人と保険隊を組みペストに向かってゆく仲間です。

同じリズムで泳いだというところは、ささやかな連帯を身体で実感してゆくシーンです。

そして、このシーンではありませんが、まさにこの「連帯」のなかで、タルーは、「僕は、この街とこの伝染病を知るずっと前から、とっくにペストで苦しんでいたいたんだ。」とリウーに告白します。

ペストという事象が、多くの意味を負うメタファであることに気付かされる重要な発言です。

タルーのペストについて、何であったかは、控えますが、とても重く根源的であり、何をしてもぬぐい切れないことです。

ペストとの闘いのなかで、静寂な隙間な時間に訪れた海に泳ぎ出すという癒やしの場面をこれだけ読み直すと、BL(Boys'Lobe)文学で引用されてもおかしくない感じで、カミュとBLという視点も可能かもしれませんが、描写に現れた感覚の官能性は、BLに限らず、この作家の身体への豊かな感受性とそれを通じての他者との交流性を感じさせます。身体への感受性が豊かな作家の文章を読むと、まるで武道の稽古のように身体髪膚、血管の先まで血流がどくどくすることもあります。バタイユの小説にもそういうのがあります。

「ペスト」という小説は、不条理へ立ち向かう姿勢の可能性とそれには根源的な人間性のひとつである官能性が深くかかわっていることを示唆していることに気づかされます。

中条版「ペスト」解説の最終章は、「われ反抗す、ゆえにわれら在り」です。

反抗の主語は単数で、在りの主語は複数であるところに注目しつつ、中条版「ペスト」についての文章を終了にします。

<追記>
池澤夏樹ほか「堀田善衛を読む」所収の鹿島茂「『中心なき収斂』の作家堀田善衛」にフランス語での連帯について以下の説明がありました。

「フランス語に“solidarité”(ソリダリテ)、連帯という言葉があります。これはフランスを理解するためのキーワードです。この“solidarité”を求めるということは日本にはない。これが日本という国の一つの特徴です。フランス語はどんなに身勝手な文学のように見えても ”solidarité”つまり社会というものを通して他の見ず知らずの人と、ある種の連帯を求めていくという要素があります。
 ところが、日本の私小説は、個人主義的というところは似ていますが、社会の部分が決定的に欠けている。だから、日本の私小説はかなり特異な文学になるわけです。
 この社会とは何かと言ったら、自分ではない他者です。他者の中に自分を見出し、自分の中に他者を見出す。そいう視点が日本の私小説には決定的に欠けている。」
上記は、宮崎純氏のサイト「日々平安」からの孫引きです。
  http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/20181230/1546177475

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