『港区立神明小6年2組白雲会、現在欠員4名!』(抄) 【東京は芝神明、浜松町あたりのものがたり】
東京の芝神明といえば、神明神社と将軍家の菩提寺の増上寺で江戸の昔から有名なところで、歌舞伎の「め組の喧嘩」をはじめ、講談浪曲落語を問わずにしばしば耳にする地名。その芝神明の、増上寺の大門あたりから江戸湾までの町並みは浜松町といわれる界隈。
平成の現在はといえば、バブル期の土地買占めにより古くからの住民の多くが去り、東京のビジネス街の一画としか見えなくなってしまっている。今では、浜松町に住んでいるといって、タクシーの運転手さんにびっくりされた話なぞを、よく耳にする。
浜松町駅のすぐ南側に、現在は首都高に隠れているが、東京湾に流れ込んでいる川が一本ある。浜松町あたりから麻布十番、港区と渋谷区の境界線ぐらいまでは「古川」と呼ばれるその川も遠く恵比寿、渋谷と上ってゆくうちに「渋谷川」などと名前を変えてしまっている。
浜松町駅に近い古川べりには、昔から東京湾へと繰り出す屋台船の船宿が残っており、高層ビル街に変わり果てた芝神明の浜松町界隈で昔の面影をわずかに残す場所となっている。
船宿を離れた船は、川面に迫っているJRの高架下を身を縮めるようにして通り抜け、東京湾へと繰り出してゆく。
平成半ばの9月のある日に、屋形船の船頭がひとり、その高架下で亡くなった。
いつもなら、腰を落としやり過ごす高架下で、何があったのか、見当違いを起こし、早めに腰を上げてしまい、船と高架にはさまれて即死した。
「上山石男(かみやまいわお)」が、その船頭の名前だった。
古川に近い浜松町3丁目(旧町名)の豆腐屋に生まれ、豆腐屋の息子だから名前くらいはごつくしようと親が「石男」と名づけた。親のあとを継いで豆腐屋を営んでいたが、バブル期の波に飲み込まれ、いくばくかのお金を手にして、家業をたたんだ。
身に付かない金はあっという間に手元から消え、石男の行く末を案じた幼馴染たちからの勧めもあり、船員免許を取得し、屋形船の船頭になった。
現在は廃校になっている地元の小学校に通い、「ガミヤン」というあだ名で同級生たちには通っていた。からだがぽっちゃりと丸っこくてとぼけた風貌がタニヤンと呼ばれていたタレントの谷啓に似ていることから上山(カミヤマ)の上の読みをとり、「ガミヤン」となった。
たいへんないたずらっ子であり、まわりに迷惑もかけたが、いたずらした後のにこっとした笑顔が何とも愛嬌があり、同級生たちに愛された。東京オリンピックのころの話だ。
30歳を過ぎたころから、頭髪がさびしくなってきた。からだが大きく太っていたために、頭髪の風通しの良さがよけいに目立った。
「頭ん中はもともと薄いんだけどさ、外まで薄くなっちゃったヨ」とわずかに残った頭髪を手のひらでなでながら、悪事が露見したときのように照れ笑いをしては、同窓会で笑いをとっていた。
小学校の同級生たちは、卒業時は男女含めて32人。
歳月が巡るたびに、浜松町を離れる同級生たちが増えていったが、地元に残った連中が俺たちの役目だとほどけてゆく紐の結び目となりがんばってきたことで、数年ごとに開かれる同窓会も盛況で、数人を除き、連絡を取り合える仲が続いている。
本人たちは意識していなかったが、他人に話すとずいぶん仲がいいんだねと感心されることがあり、そうなんだと思ったりもする。
お正月には、地元に残る連中で声を掛け合って、小学校の担任だった先生の家へ、電車をいくつか乗り継いで年賀の挨拶に行くことが、数年前まで40年近く続いた。
先生によけいな心配をかけないように、同級生たちの近況をよく吟味したうえで報告し、先生のご様子を伺い、今年の同窓会はどうしようかという話をして、長居をせずにお暇した。
メンバーは大体決まっていたが、年によっては、とても今年のオレはこっぱずかしくて先生に会えないというのもおり、ひとりだけでゆくこともあった。
上山岩男の人生の大半は、そんな人間関係のなかにあった。浜松町で生まれ、浜松町で育ち、浜松町で生活し、浜松町で逝った。
お通夜は、天気予報が外れた雨の夜に五反田の桐ヶ谷斎場で行われた。暗い夜道をガミヤンのことを思い出しながらとぼとぼ歩いてゆくと電灯が煌々とした葬祭場があり、そこにはいくばくかのひといきれがあった。
祭壇のてっぺんで写真のガミヤンは正面を向いて胸を張ってにこっと笑っていた。
最近の同窓会では、ガミヤンは、ますます丸くなり服からさえはみ出していったおなかを前に折り曲げ、すまなそうにして現れ、やがて、酔っ払ううちに頭をもたげてきて、わざわざ卑猥なことを口走り、だれか女性がきゃとかいうとへっへっへ~と笑って得意そうに周りをちらちらと眺めていた。
自分の話に女性からの反応があったことをとても喜んでいるようだった。
久しぶりに会った、写真のガミヤンは最初から背を伸ばして、良く来てくれたねと嬉しそうに同級生たちを眺めていた。
同級生のみんなよりもちょいとばかし先に逝くこと、向こうにはガキ大将だったツグが待っていて楽しみにしていること、さよならなんていう柄じゃないこと・・・。
ガミヤンの声が聞こえていた。
三々五々集まった10人ばかりの同級生たちは、斎場に隣接したお清め場に座ってはみたものの、10分も経たないうちに浜松町へと向かうことになった。
すぐに浜松町へ向かうことをかれらのだれも不思議とは思わなかった。
浜松町でガミヤンの送別会が始まった。
浜松町で寿司屋の大将をやっているキューピーがガミヤンへのいたわりとその夜遠くから駆けつけてきた同級生たちへの感謝を得意の照れ隠しの早口でしゃべり、葬儀のあれこれでしわくちゃになったモーニングのしわを伸ばすように背伸びして献杯した。葬儀場の後片付けの手伝いを終えたふたりも駆けつけ、10人ばかりの会が始まった。
ガミヤンの小学校の同窓会は「白雲会」といった。
石原慎太郎の小説「おゝい、雲!」の一節から取られた名称だった。
小学校4年生からの担任だった先生は、ご自分が本好きであったこともあり、時間があると生徒に長編小説を読み聞かせていた。「宮本武蔵」「レ・ミゼラブル」「微生物を追う狩人たち」・・・。
先生の独特の芝居がかった読み聞かせを生徒のほうでも楽しみにしていて、授業の空き時間にも先生に本を読んでいただくことをお願いすることもたびたびあった。
教室には、先生が最近読んだ本のなかで感動した文章が大きな模造紙に大きな文字で書かれて張ってあった。
卒業前には、それが、石原慎太郎の「おゝい、雲!」の最後の一節だった。
同窓会の名称を決める学級会は、好き勝手な意見の応酬で盛り上がったが、紛糾し、教室に張ってあった「おゝい、雲!」の一節から、大空に正々堂々と広がる白い雲のイメージをもらって、「白雲会」となった。
「しらくもかい」では、皮膚病の会みたいだという感想が親から出ていたり、ちょっとやぼったいかなと思ったりした生徒もなかにはいたが、年齢が長ずるに従い、そういうこともすべて浜松町らしく好ましく感じられるようになった。
ガミヤンの思い出話は、ほとんどがいたずらに関することだった。
「キューピー、ガミヤン、ツグ、コ-パンで中学校のときに先生に特別に呼ばれて叱られたこと(叱られた原因をだれも覚えていなかった)」
「本を読まないはずのガミヤンが珍しく図書館に入り浸っているので、なにしてるんだと後ろから覗いてみると世界名画のヌードを熱心に鑑賞していたこと」
「君が代が大好きで、♬イワヲとなりて~のところでは、嬉しそうに自分の顔を指さした。卒業式では、それを見て気をつけていながらもつい笑ってしまった同級生が先生から頭に拳骨をくらったこと」
「去年のお祭りのときに同級生の息子がまだ中学生であるにもかかわらず酒の飲み方を伝授し、それを聞いた同級生の奥さんが抗議しにいったら、ざまぁ見ろ!と悪びれていたこと」
「釣りが好きだったガミヤンは魚にも詳しく、金杉橋で大きな魚を釣り上げたときにはこれは珍しい魚だからと母校にもっていったこと」
等々・・・・・・
酔うほどに話は思い出を行き来し、ガミヤンからその周辺の話へと広がっていった。
小学校でのできごと、中学校でのできごと、社会人になってから今までのあっという間に起こったこと、同級生たちの噂と真実。
ここにいるひと、いないひと、いろんなひとが話の中に呼び出され、からかわれ、おちょくられ、時にはほめられ、そして、励まされ、励ましあい、
ーあ~ぁ、人生って長いんだか、短いんだか、わからないよね。
ーでもね、こうして会ってると楽しいよね。
ー今夜はガミヤンが呼んでくれたんだけどさ。
ふと気がつけば、白雲会32名のうち、男子4名が鬼籍に入っていた。
ここで女子のツナちゃんが突然立ち上がって宣言した。
ー白雲会、欠員4名! 私が補充します!!
ツナちゃんはもともと面倒見の良い女の子だったが、人に気を使い過ぎてあっと驚くような踏みだしをしてしまうところがあった。
子供の学校のPTA会長を務めてからその性格にますます拍車が掛かってきていて、白雲会会員減少の危機に、矢も楯もたまらず、ついに立ち上がってしまったらしい。
ー「欠員4名」を「補充します」ってさ、ヘンだけどさ、何かスゴく力強いユーモアがあって、生きる元気を思い出させてくれるじゃない。
ーおいおい、ほめ過ぎだろぉ!
ー「欠員」という言葉の底には取り返しのつかない悲しさがずしっとあり、そこに「補充」ってことで、悲しさに悲しさを接ぎ穂するだけじゃなくて、残っている私たちは精一杯生きていくんだという思いが、何だかひしひしとくるよね。
ーだれだよ、小難しいこと言い出すのは、さ!
ーでも、やっぱり前向きでたくましく浜松町らしくて面白いね。
ー次の白雲会には今夜も来ているツグの奥さんを呼べばいいし、隣のクラスの子(子じゃないよ!)だって、中学校の同級生だって、子供や親兄弟だって呼んだら、楽しいじゃないか。
ー大げさな物言いかたになっちまうけどさ、生きててよかったなぁという感じが、体ン中からふつふつと沸いてくるような感じがしてくるね。
ーほんと!かよぉ~ ところで、おまえ、いつもナニやってんのさぁ!
以上は、以下の本よりの抜き書きです。
「『白雲会、現在欠員4名!』 ふるさとは芝浜松町」
水木 田(みずき でん):著
書肆真澄:発行
浜松町には、江戸時代から願人坊主や門付け芸人が住んでいて、ついには浪曲の元祖桃中軒雲ェ門を生んだ一画があったり、大震災のあとには、労働運動が盛んだったさまを垣間見れるフィルムが残っていたりする。また、浜松町駅に隣接する旧芝離宮恩師庭園は、名前の通りご皇室とゆかりの深いところで、かつてのここの山番(庭園の管理人)は、宮内庁出身の人で占められ、東京の公園で一番おっかない山番がいることで有名だった。
長い時間の人々の営みの中で土地に培われた文化や堆積した歴史は地霊となり、そこで生活する人々と交流しているとよくいわれる。
この「『白雲会、現在欠員4名!』 ふるさとは芝浜松町」では、昭和30年代後半に小学生として浜松町で過ごした人たちが描かれており、浜松町の地霊に触れた場面はないが、かれらの足元には、地霊が揺らめいていたかもしれない。
発行元の書肆真澄は、千葉にあり、日本酒でいえば馥郁たる香りをただよわせると評されそうな本を企画出版していることで一部の本好きには知られているということだ。
今回の抜書きに名前だけ登場したツグについて書かれた「ある漢(おとこ)の伝説・聞き書き《小林亜郎》伝」(非売品・書肆真澄)は上記した浜松町らしい地霊から魅入れられたある男の話らしい。
あわせて読んでみたい、というのが私の次のささやかな願いだ。
【追記】
書肆真澄は、平成30年8月29日に店主の逝去により閉店した。小学校の教師として、多くの教え子たちから慕われ愛された店主について書かれた文章があったらぜひ紹介したいと思っている。
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