「小林亜郎」という漢の思い出 【東京は芝神明、浜松町あたりのものがたり】
1999年2月のとても寒い日だった。
大陸からきた大きな寒気が東京の上空にあり、そこからの冷気が夕暮れとともに下りてきて、背に冷たい荷物を徐々に背負わされてゆくような家路だった。
その夜には、ローリングストーンズの3度目の来日公演の後に行われたヨーロッパツアーのブレーメンでのコンサートがテレビで放映される予定だった。ストーンズフリークの末席を汚している自分としては、その情報が入ったときからワクワク感が一杯で、とにもかくにも、きちんとした録画をすべく用意を万端にして、放送当日を迎えていたのだった。
ところが、背にのしかかる冷気のせいか、ストーンズに気持ちが急いていたのか、録画開始時刻前に帰宅する始末で、ソワソワしている自分に呆れながらも、夕飯の準備もできているようだし、飯でも食いながら放送をリアルタイムで見てみるかとさっさと着替えて食卓に腰掛けた。
放送時間の直前、突然、背後のチェストに置いてあった電話が鳴り出した。
こんな時間の電話は珍しいなと、受話器を取り上げると小学校の同級生で、同窓会の幹事である誠一さんの母上だった。
小林亜郎(ツグオ)の急死と葬儀次第の連絡。
誠一さん本人ではなく、母上からの連絡ということで、早急な連絡対応に追われていることが察せられ、通夜の日時を再確認するにとどめた。
食卓に向き直ると、手際の良いカミサンが味噌汁とご飯を僕の前に準備してくれており、ちょうどTVでは、ストーンズのコンサートが始まった。
ロックが生きていた時代の寵児だったミック・ジャガー。歳を重ねて枯れた身体を駆使するパフォーマンスには、かつての野生児の面影を生かしながら現在進行形の自分を見せようとする姿勢があり、ファンの欲目もあり、それがとても好ましく思えた。身体全体をフルに活用してのパフォーマンスに目を奪われながらも、ご飯をいつもより多めに口の中にほおばり、かみ始めると上下の奥歯がぶつかり合わさってゆく感覚が妙にリアルに感じられた。何だかヘンな感覚だなと思っているうちに涙がぼたぼたと落ちてきた。
目はあいかわらずテレビでのストーンズを追っている、若いころはぶっきらぼうだったキースが笑みを浮かべ、チャーリーのリズムはあの頃のように鋭く打ち込んでくる、口内では、ご飯をざくっざくっとかんでいる、涙は止めどもなく落ちている・・・涙はどんどん大粒となり、ぼたっぼたっと音を立てて食卓にぶつかっている・・・
小林亜郎に初めて会ったのは、小学校の入学式だった。
昭和36年(1961)4月、浜松町にあった港区立神明小学校の新入生は、約60名、入学式が終了すると半数づつ2クラスに分かれ、僕たちは、入学式が行われた講堂から教室へ向かうために、コの字型の校舎に囲まれたアスファルトの校庭へといったん出された。
教室に入る前に少し休み時間でもあったのか、60名ほどの児童とその親たちは、都心の学校らしい狭い校庭で入学式のどこか華やいだ雰囲気を引きずったまま、しばらく過ごすこととなった。
同級生になる子たちが、いくつかのグループに分かれて、楽しそうにはしゃぎあっている様子をぼんやりと眺めていた。
僕は、5歳のときに、この町に引っ越してきた。
わが家の住まいは、町の中心からは山手線を挟んだ反対側の場所に新しくできた官舎にあった。
その頃の住所でいうと「港区芝海岸通」となるが、芝浜松町という町は、山手線の内側にあり、うちの新住所は、山手線の外側にあった。(ほどなく、町名変更で、「芝」が抜け、「港区海岸」という味も素っ気もない住所となった。)
もともとの浜松町の住人からすれば、線路の向こう側、海に向かう方にあった大きな空き地に、野球場でもできるんじゃないかと期待していたら、3棟の4階建てアパート(64世帯)ができてがっくりということだったらしい。
しかも、6歳のときに、同じ官舎の同年の幼馴染と入園した幼稚園は、隣の学区に位置しており、卒園生たちのうち僕たちふたり以外は、隣の小学校に進んでいた。
こうした事情があり、しかも、幼なじみとは別のクラスになり、幼稚園からの友だちもなく、よその子たちが遊んでいる様子をぼんやりとひとりで眺めていたのだった。
そのうち、子供たちの群れの中から、僕をめがけて弾丸のように走ってくる男の子がひとりいた。
遠目にも凄いなと思ったのは、短パンから出ている腿の太さだった。
それは、今まで僕が見たことがないぐらいに太く、顔の幅よりも腿のほうが大きいように見えた。
その男の子は、思いっきり走ってきたからだろう、息を弾ませながら、同じクラス、1年1組であることを告げて、一気に名前を名乗った。
僕は目の前にいる見たことのない少年、しかもでっかい体からは熱気があがり、顔にははちきれんばかりのやんちゃさが溢れている少年にただびっくりするだけだった。
今なら、あのような野性的な少年をそれまでの人生で見たことがなかったとでも言うだろうか。
しかし、その少年をいっぺんで好きになった。
少年の言動は粗暴ともいえるぐらいに唐突だったが、そこには、友だちになろうぜという彼の思いが充分すぎるほど感じられ、その思いはストレートだったからだ。
この少年が、小林亜郎(ツグオ)だった。
小学校の近くの魚屋が彼の家だった。父上が、「亜細亜の郎(オトコ)になれ!」という思いを込めて、命名した。お兄さんと妹さんがおり、デカい風体と態度に似合わず、次男だった。
今から思えば、入学式での出来事、小林亜郎の友達になろうという発言は、彼なりに考えた用心深いひとつの作戦だったような気がする。
入学式の日に、彼は、すでに幼稚園時代に確立していたであろうガキ大将の地位を脅かすようなやつがいないかを点検していて、たまたま体だけは大きかった僕に目をつけたのだろう。
さすがに、僕の様子を見て、ケンカをするような相手でもないし、でかいことだけは気になったので、友だちになろうとしたに違いない。
この後の付き合いの中で、何度も確認することになるのだが、小林亜郎は、がっしりとした肉太の大柄な身体から発する腕力抜群のガキ大将のイメージの一方で、けっこう周りを気にしながら、考えて行動する少年だった。柄に似合わず、というところだ。
小学生時代に体の大きさがほぼ同じということは、学校ではいつも傍にいることとなる。
朝礼のときは列の後ろ、教室では後ろの席、催し物でも後ろの位置、遠足のバスでも最後列の席。遠足のときは、先生は出入り口に近いいちばん前に座っているので、そこからいちばん遠い後ろの席は、教室とは違って先生の背を見ながら勝手に遊べる分だけ、滅多に無いパラダイスだった。
小林亜郎のあれこれを思い出すままに綴ってゆくことにしよう。
小学校入学して、一月も経たないうちに、僕は左膝の怪我で1週間ばかり学校を休むこととなった。足の怪我なので、動くこともできずに、布団の中でテレビを見たり、本を読んだりの毎日で、学校をサボれて嬉しかった気持ちも1日と持たず、ただ退屈。入ったばかりの学校の様子はどうだろうと思うばかりだった。
そんなある日の夕方。母親が寝床にやってきて、学校の友達が来ているというので、まだ、友達はいないはずだと思いつつ、あわてて片足ケンケンで玄関に行ってみると、玄関の扉を大きく開けて、亜郎が立っていた。
「(小学校の担任の)先生が、○○クンは、(入学して)すぐに休んでいるけどどうしているかしらね、と、言うんでさ、オレがひとっ走り見てきますと言って、来たんだぁ。
先生にぃ、あいつは元気だったと言っておくよ・・・じゃあな。」
実にあっけなく用事は済み、上がってけよという言葉すらかけられないうちにさっと、帰ってしまった。
いかにも、彼らしい照れくささいっぱいで人に接するスタイル、ちょっと相手から視線を逸らしながら棒読み的にしゃべる仕草に接したのは、これが、初めてだった。
小学校6年間を通じて、亜郎とは、良く遊んだ。
彼が兄から仕入れた流行情報も、私の知らないことが多く面白かった。
ある日、足を突っ張るようにしてアゴをしゃくりあげ、なめ下げるような視線にして、ポケットに手を入れて、取ってつけたような高音で、しゃべることを何回もやってくれた。あとでわかったのだが、これは、小林旭のモノマネだった。主に東映と東宝で、日活映画を見る習慣のなかった家庭で育った僕には、まったくわからず、僕にわからせようと亜郎もそうとう困っていた。
舟木一夫が流行るといち早く、学校で歌唱入りで、こんな歌手も知らないのかよという感じで、得意顔で同級生に披露した。この得意顔が、なかなか、生意気なのだが、どこか愛嬌があり、ああ、また威張ってるよと笑えてしまうのだった。
加山雄三が流行ったときには、加山雄三の本があるんだけど、読むか?と僕に唐突に差し出してきた。怪獣映画を見に行って、併映していた「エレキの若大将」で加山雄三ファンになっていた僕は、喜んで借りて、約束通り一晩で読んで返した。
そのときに、どんなことが書いてあったというので、ドカベンというあだ名の由来や、フルチンでプールで泳いだことなど面白くて印象に残ったことをしゃべったところ、間をおかず、同級生たちを集めてさっそく僕から仕入れた話を披露していた。
同じようなことは、よくあったような気がするが、1回として、不愉快になったことはなく、むしろ、喜んで亜郎に聞かれれば知っていることは伝えていた。
僕たちの住んでいた地域は、港区のなかでもガラが悪いことで知られており、そのなかでも特に僕たちの通っていた学校は、ガラが悪いことで周囲の他校に恐れられていたらしい。
(だいぶ、後年になってから周辺他校出身から聞いた話だが。)
そんな環境のなかで、亜郎がガキ大将として周りの学校にも睨みを効かせていたわけなので、僕の知らないケンカ武勇伝には事欠かなかったことだろうと思う。よその学区にゆくのは、少し怖いものだが、よその学区に行って、怖い思いをしたことがないのは、僕の小学校にガキ大将がいたからかもしれない。
4年生になるときにクラス替えがあったが、亜郎とは、また、同じクラスとなり、卒業するまで同じクラスだった。
小学校も上級生ともなれば、身長もぐんぐん伸び、亜郎も僕も母親の背丈はとうに越してしまい、父親とはほぼ同じぐらいになった。背丈の伸びと同時に体つきも大きくなり、華奢なままの僕とは違い、亜郎は、肩幅も広がり、がっしりとした骨格に硬い筋肉がびっしりとついた体格となった。四角い顔は、無表情の時が多く、時折見せる鋭い目つきは、周りを圧倒するには充分ほどで、立派なガキ大将の風情となっていた。
この年齢の男の子の喧嘩は、それまでと違い、力が出てきた分だけ、殴り合いも蹴り合いも血を流す量が増え、傍から観ていてもかなり迫力のあるものだった。
そして、思春期に入りかけて突如身体から湧いてきたもやもやとして使い道がわからないエネルギーは、他者に向けられるしかなく、それは、同性には喧嘩にもなるような突っかかり、異性には、いじめとも取られ泣かれてしまうようなチョッカイを出すようなことが亜郎にも始まっていた。
好きな女の子には、小さな紳士だったが、何となく気にはなるが好きにまで至らない女の子には、ときどきわざわざ泣くまで悪態をつきまくったりして、自分の気持ちを測っていた。
結局、僕は、亜郎とは、口喧嘩も、殴り合いもしたことがなかったので、亜郎の持て余したエネルギーの使い道のすべてを知ることはなかったが、身体から匂ってくる野性的で凶暴なオーラは強烈に覚えている。また、喧嘩については、本人からも友達からもよく聴いていた。たまには、亜郎もケンカで負けることがあり、何となく気まずそうにし、次にどんな態度をとろうかとあたりに殺気をはなちながら考えている姿は懐かしい。
そのころでも、お互いに誘いあって、野球、ザリガニとり、鳥撃ちのパチンコ、メンコ、凧揚げ等々遊んでいた。
あるときに、ザ・ガードマンごっこをひとつ年上の☓☓ちゃんと俺ん家の2階でやるから来ないかと誘われた。もうサァ、何度かやったけどサ、とてもおもしろいぜェ。そのころ、「ザ・ガードマン」というTV番組が流行っており、少年たちにはベッドシーンが必ずあることで知られていた。そのベッドシーンごっこをさすがに同級生の女の子は誘えず、少し年上の女の子とやっていたらしい。兄から得た早熟な情報を試行するにあたり、亜郎らしく用意周到に仕込んで実行していたわけだった。
中学校は、亜郎や同級生たちとは離れ、僕はひとりだけ別になってしまった。
あいかわらず、僕は浜松町に住んでいたので、年に何回かは町中で亜郎に出くわすことがあり、そういうときは、小学校の同級生のだれかれの消息などを話してくれた。
10代も後半になると、亜郎は家の手伝いをしていたのだろう、岡持ちを提げて自転車に乗っている姿でよくでくわしたものだった。
浜松町の駅前を歩いていると岡持ちを提げた自転車が後ろから来てすごいスピードで追い越して、10メートルもゆかないうちにUターンして僕に向かってくることがよくあった。ああ、ツグ(亜郎)だ、と思っているうちに・・・
このあいだの正月さ、(小学校の担任だった)先生のとこに、(同級生の)△△なんかと行ってさ、(同級生だった)みんなのことを話してきたさ。そいで・・・だれだれはこうで、だれだれはこうでとひとしきり、ほとんどこちらを向かずに目を逸らしながら話すと、じゃあなとそのまま自転車で全速力で行ってしまう、そんなことが年に何回かあった。
小学校の担任の先生の家を正月に訪ね、教え子たちの近況報告をする習慣は、亜郎が亡くなる数年前まで、こういうことに義理堅い誠一さんが中心となり地元に残った亜郎などによって続けられていた。
暴れん坊の亜郎もこの先生には、可愛がってもらったこともあり、頭が上がらず、都合の悪いことのあった年には、正月の訪問は、誠一さんに任すのだった。この先生への訪問は、亜郎の体内にある荒ぶるマグマの噴出をコントロール術でもあったかのようだった。
亜郎が先生より先に逝くこととなったが、もし、逆だった場合、加齢とともに体力が弱まり、体内に何とか閉じ込めていたマグマが噴き出し、だれにも手に追えないことになっていたかもしれないと思ったりもする。
亜郎の訃報は、誠一さんから発せられたように、誠一さんが亜郎を最後まで看取るひとりとなった。
誠一さんから聞いた話はたくさんある。
彼らが行った中学校は中3の時に隣の中学と統合され、名前も変わり新しくなったが、両校の生徒の間には卒業後も溝が残った。そのなかで、両校の卒業生が仲良く同窓会をやろうと言い出したのは、亜郎だったそうだ。もちろん、実行の幹事は、誠一さんに割り当てられてしまうことになる。
僕の好きなエピソードは、ある年の大晦日に誠一さんが、亜郎が賄いの手伝いに入っていた店の近くにゆく用事があったので、帰りに子供連れで亜郎のところに寄ったときの話だ。
亜郎は、ぶっきら棒ながら、心の中は溢れんばかりに大喜びだ。そこで、誠一さんは忙しいだろうから先に帰って、息子はオレと一緒に帰ろうと包丁をふるいながら上機嫌で亜郎は誠一さんの息子に言った。息子は、途端に泣きだした、ツグおじさんとふたりは怖い!と。そうだよな。
亜郎は自宅で倒れ、病院で1周間ほど長らえた。医師がびっくりする体力だった。
入院の日々を誠一さんは見舞いに通った。病院にゆくには、橋を渡らなければならなかった。
橋の下から、船に乗った男たちが誠一さんに声をかけた。
「誠一さぁ〜ん、今日のツグの兄貴ゃぁ〜、どんなあんばいですぅ〜えぇ〜」
亜郎の葬儀は、東京タワーの麓にある寺で行われた。
地下鉄の駅から、今やビジネス街になってしまった神谷町の交差点に出ると、休日で人気のない夜のビル街には、冷たい強風が吹きさらし、オーバーコートと体との間にある僅かな隙間にさえも冷気が入り込んで来て、身が震え、思わず立ちすくんだ。
そのときに、交差点の反対側の暗闇に人がかざしているようなぽつんとした明かりが見え、ほどなく、その明かりが車道を横断し、近づいてきた。葬儀提灯をもった喪服の大柄な青年が静かに姿をみせ、寺までの案内を下町の人間らしい慎ましい態度で、手際よくしてくれた。案内しながら、こちらの様子を伺う青年の眼からは下町の若い男が発散する懐かしい野生が放射されており、下町の匂いを久しぶりに嗅いだ気になり、葬儀に緊張していた心が少しばかり柔らかく温んだ。
東京タワーの下にある葬儀場の寺は門前から老若男女のひとがあふれていた。ビジネス街に変貌して、もうほとんどひとが住んでいないはずの浜松町にこんなにもひとがいることにまずびっくりした。
受付には誠一さんがおり、参列者を滞らないように案内している中で、多くの小学校の同級生たちがせわしなく立ち働いていた。
お寺に用意されていたお清めの席は、早々にひきあげ、浜松町駅そばの居酒屋へと地元の連中に連れてゆかれた。
居酒屋への地下への階段を下りると、200人ぐらいは入るであろう広い空間は深い海の底のように薄暗く、そのなかでたくさんの黒い人影がざわめきうごめいていた。葬式帰り特有の重い感情を抱えながらも、さすがに近頃の浜松町はビジネス街として桁違いに発展して日曜日の夜にすら居酒屋に客が入るようになっていると思ったものだ。
酔っ払いたちが集うテーブルからこぼれてくるたくさんの生あたたかい感情が海藻のように幾重にもゆらゆらとしていた。4~5列に並んだとても長いテーブルの間を抜け、奥の方へ案内されると長いテーブル群に向かい合うような位置に席が用意されていた。
席は壁を背にする方にしか用意されておらず、そこに座ると、自然に店のなかが良く見渡せ、ぼやっとした光のなかで、酒を酌み交わし、静かに話している客のほとんどが男たちである様子がしれた。
10人ぐらいに用意されたその席には、知らない顔もあったが、顔なじみの同級生たちもいた。やがて葬儀場の仕舞いが済み、誠一さんたちがやってきて同じテーブルに座った。そのころは、冬の海の底のひと影はさらに増えて、ひとが立てる有耶無耶な熱気が静かに漂っていた。
僕は、誠一さんたちが来るまで、勧められるままに、または、手酌で、黙って目の前の杯をただ空けるばかりだった。ツグにあずけていた荒ぶる魂が行き場所がなく、足元でさ迷っていた。
すると、だれかが、このひとは、亜郎の小学校の同級生だよとどうも僕のことを紹介してくれたらしい声が聞こえてきたので、よろよろと立ち上がって自分のテーブルの横並びに座っている知らない顔のひとたちに頭を下げた。
そのまま、何となく正面に並んだ長いテーブル群に眼をやると・・・そこに座っていた黒い人影たちがとつぜんもぞもぞと動き出し、ほとんど全員が僕の方をじっと見ていた。そして、かれらは、茫洋としながらも鋭い光を放つまなざしを僕に向け、中腰になったり立ち上がりながら、少し頭を下げ挨拶を返してきた。それは、心のこもった、とてもとてもわびしい光景だった。
ほとんどの男たちが喪服を着ていたことに、そのときになって、僕はやっと気づいた。
「ツグの兄貴の小学校の同級生ですか」とそのうちの誰かが親しげに話しかけてきた。
もうなにも言葉はなかった。
中学校に上がる際に、私立へゆくこととなり、公立へゆく同級生たちとは別れることとなったときのことをよく思い出す。
僕が別の中学へゆくことが同級生にも知れてきた3月に入ったばかりのある夕方の下校時、たまたま、全校生徒の下駄箱が並ぶ校舎の片隅で、亜郎とふたりになったときがある。
沈みかけた太陽の光が細かく縁どりされた窓ガラスを抜けて細かく寸断され、大きな下駄箱の棚が並ぶだけの殺風景な薄暗い室内に光のかけらのように散らかっていた。
お互いに下駄箱の靴を取り出しながら、亜郎が話しかけてきた。
「お前さ、北芝中学に行かないんだって?母ちゃんから聞いたんだ。何か事情があるのかい、オレからお前の両親に(北芝中学へ)行けるように話してやろうか?」
私は、亜郎のことばをまず理解しようとした。しかし、とても嬉しい気持ちやら、何やらわからない感情がお腹の中から湧きあがってきて、うまく反応できず、ともかく必要なことだけをことばにすることになった。
「私立へゆくのは、オレが望んだからさ。」
「そうなのか。」
「ああ、北芝にもゆきたかったけど、そうなっちまったんだ。」
「そうかぁ、わかった、親んところには行かねえよ。」
「ありがとよ。」
「ああ、気にすんな。」
そして、小林旭の真似を久しぶりにしようとしたのか足を突っ張って、眇になり、
「ちょっとな・・・」と。
その年齢の男の子にありがちな視線を合せないやりとりだった。
もしも、この世に一息つき、あの世にゆく前に、わがままが許されるならば、
あの世に行ってるツグを呼び出し、
まだ、広く高かった空、浜松町の空を飛んで、
小学校の入学式の中庭の風景をツグの野郎と眺めてみたい
と思っている。
Well I chased him through them county roads
Till a Sign Said "Canadian border five miles from here"
I pulled over the side of the highway and watched his taillights disappear
・・・・・・・・・・・・・・・Bruce Springsteen "Highway Patrolman"
https://www.youtube.com/watch?v=1M2rHjWNZBI&t=20s