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愛町分教会 初代会長 関根豊松 エピソード
1.布教伝道の様子
関根氏の布教伝道の様子として、
「お道の通りはじめに丸十四年間、この道を本当に判るまで研究するために、人の軒下にゴザを敷いてお願いしたりして、夜寝る間も寝ないで、食べるものも食べないで、やってやってやり抜きました」
と話している。
すると、
「人は助かる、当たるとさわると人は助かる」
といわれるように、
関根氏が触れただけで人がいくらでも助かったという。
ある時には、長い間、雨が降らず村人が日照りで困っていた。
そこで、関根氏が村の角に立ってお願いすると、
「どんな時でもきっと私が逃げるのが間に合わぬ位、じきに雨が頂けました」
と話され、それは
「不思議にすぐ雨が頂けるので、私がお願いを始めると、村の人が傘を持って待っててくれた」
という逸話も残されている。
『因縁に勝つ』54~55参照
2. 渡部与次郎先生の話から
天理教愛与布教所長(立教一七二年当時)渡部与次郎は、
関根氏のおたすけの様子について次のように話している。
毎日夜の十二時になると、神様の前で、
「関根は今日一日、このように通ってまいりましたが、これでよかったでしょうか」
と伺ったそうです。
「今日はよくやった」とおっしゃるときと、
「今日はおたすけがちょいと足りなかった」とおっしゃるときとがあった。
神様は、はっきり声ではおっしゃりませんが、浮かんできたのだと思います。
「足りなかった」と思えたら、
病人宅にござを持って行き、庭に敷いて、陰願いをされたそうです。
あるときには、家の人が夜中にトイレに行こうとしたら、
何だか誰かがいるような気がして、庭先を見ると会長様で、
その陰願いのおかげでたすかった人もあったそうです。
とにかく、自分というものを捨て切って、神様の御用に専念された。
常に神様と向き合って、
「関根は、今日はこれでよろしかったでしょうか」
と通られたわけです。
渡部与次郎「定めた先に」『あらきとうりよう』二三四号 立教一七二年 五一頁引用
3.ようぼく7千名
関根氏が晩年の頃に執り行われた、教祖八十年祭では次のような記録が残っている。
かくして教祖八十年祭には、一万五千人もの信者がお地場帰りさせて頂くようになった現在の愛町の強勢は、会長様にお助け頂いたご恩返しのためにと、
教会のご用を勤めさせて頂いている役員は、二百十五名、
神様をお鎮めしてある信者宅八百三十五軒、
教人一千二百五十名、
修養科卒業生四千名、
用木七千名、
全信徒はおよそ五万名に及ぶのである。