『稿本天理教教祖伝逸話篇』に「一二五 先が見えんのや」というお話が収められている。短いので全て引用したい。
そして文末の註には「中山コヨシは、明治十六年八月二十七日結婚。これは、その後、間もなくの事と言われている。」と記されている。
結婚して間もなく、早くも生家へ帰る決心をしたコヨシ先生。その理由は、重吉先生のお人好しを頼りなく思ったからだという。
コヨシ先生は教祖のお言葉をどう悟ったのだろう。何を申し訳なく思い「泣けるだけ泣いてお詫びした」というのか。
中山伊千代「中山こよし」(『みちのだい叢書 第二集』所収)を読んでみよう。生家へ帰る決意に至ったとある事件、そして教祖のお言葉を取り次がれたコヨシ先生の内面が比較的詳しく記されている。
お人好しである夫が頼りなく、日頃からストレスを感じていた中にも、不満を爆発させた引き金は重吉先生が他家からいただいた赤飯を一人で平らげてしまったことにあったという。「先が見えんのや」とのお言葉を聞き、嫁入りしてから一日も喜べなかったこと、それでもそんな自分を可愛がってくださる親神様の親心に、「申し訳なかった」とお詫びされたのである。
重吉先生夫妻がお互いに性格のずれを気にしだすようになるのは結婚してからということになるだろう。そこで気になるのは、この二人がどういった経緯で出逢い、どのように縁を結ぶことになったのかという点である。
『天理時報』昭和五十三年五月二十八日号に、孫にあたる中山慶一先生が「祖父母の結婚話」を記しておられる。以下、またもや長めの引用を許されたい。
教祖の命により、声が良かった重吉先生が盆の音頭をとり、その調子に合わせて踊りが好きなコヨシ先生が踊った。性格のずれを気にさせない呼吸ピッタリの相性に、「十年もの長い間付き合ったような親しさを感じ」結婚に至ったというのである。
考えてみれば、当時は男女が隔てなく交際できるような時代でもない。もし知り合いだったとしても、顔見知り程度で終わっていたかもしれない二人が、教祖の計らいで互いの気持ちがほどけて、すっかり意気投合したと思われる。
「教祖が結んでくれた縁」ということに深く感じ入るからこそ、「あゝ申訳ない、こゝへ嫁入りした日から今日まで一日として喜べなかつた。然し今日は遂々さとへかえる決心までした、あゝ申訳ない。神様は私の如き者をこゝまで可愛がつておつれとほり下さる。あゝ申訳なかつた」と泣けるだけ泣いてお詫びされたのだろう。
そして、その神意に気がついたコヨシ先生の眼はまたハッキリ見えるようになったのだ。深いさんげを経て、これ以来コヨシ先生と重吉先生は夫婦仲睦まじく暮らした、と捉えてもまんざら僕の希望的観測ではないはずだ。