モカに始まりのこと
はじめの『モカに始まり』
「私が書く本は、生涯に一冊だけです」。
森光宗男さんはそう言って、推敲に推敲を重ねた原稿を私に託した。
森光さんの原稿を読むのは、それが初めてではなかった。最初に読んだのは1995年。彼が珈琲産地巡りを重ね、モカコーヒーの謎に迫る核心を掴み始めた頃のことだ。それから数回、彼が書く物を読み、編集し、雑誌に掲載した。原稿にはいつも、ほとばしる珈琲愛と、目を輝かせて遊ぶ子どものような好奇心と、あららぁ…とずっこけても笑い飛ばす陽気さがあった。そして少しだけ、生真面目な内省と社会批判が散りばめられていた。彼の場合、コトの起こりが何であれ、還り着くところは珈琲一択だった。
2012年夏の初め、森光さんにとって最初で最後の本をつくることになった。彼は本のタイトルと、カバーや紙色に関わる装幀の希望を口にし、最後に
「奥付には一枚一枚、活版の検印を付けたいのです」
と、言い添えた。いかにも、小さな手仕事を大切にする森光さんらしい望みだと思った。
託された原稿を形にするのに、さほど猶予はなかった。その年の11月1日に韓国釜山で開かれるコーヒーの会に間に合わせたいという、彼の希望があったからだ。
人が〝生涯一冊〟と心を決めてつくる本は、重い。森光さんの矜恃に向き合い、知識と美学を受け止め、その道程を一冊に編んでいくには、私の技量がおぼつかない。艱難辛苦の果てに、ようよう本は形になった。
モカ港のブルーを表す真っ青な表紙の上を、森光さんが書いた象形文字のごときタイトルが躍る。その色は、熟れたコーヒーチェリーの赤。
できたてほやほやの『モカに始まり』を両手のひらで挟み、天地を何度も返しては、そっとさする。静かに微笑み、「いいね」と編集の労をねぎらってくれた森光さんの表情と声を、私はいつでも思い出せる。
『モカに始まり』ふたたび
2016年12月、縁深き韓国で、突然森光さんが逝った。
それから半年が過ぎた頃、『モカに始まり』再版話が降って湧いた。当時、自身の病気療養のために仕事を中断していた私は、再版を希望する出版社の話を受け入れるつもりでいた。
せっかくの話をふいにしてはいけない。
『モカに始まり』は、森光さんの遺言のようなものなのだから…。
出版社には、森光さんの本に対する思いを伝えた。生前に受け取っていた再販用の校正紙も元データも手放した。
けれど、打ち合わせの席を立った途端、どうしようもない哀しみが私の心にどっと流れ込んできた。何か、とんでもない間違いをしでかしたような狼狽と困惑と後悔。思いがけない感情の揺れに接して、私はやっと自分の本心を認めた。
できることならもう一度、この本を編集したい。
もう一度、森光さんと仕事がしたい。
声をかけてくれた出版社には非礼を詫び、私は『モカに始まり』と再び向き合った。私のワガママな願いは、森光さんを慕う多くの協力者とクラウドファウンディングが叶えてくれた。
森光さんとの記憶も記録
2017年12月7日。森光さんの一周忌に、改訂版『モカに始まり〜産地紀行編』が完成した。そして翌2018年5月25日には、『モカに始まり〜焙煎・抽出・美美編』を送り出した。
青い本と赤い本、2冊セットで新たな『モカに始まり』だ。
文字校正だけではなく、地図を精査し、写真と文章の流れを整え、初版よりもすっきりと眺められるように編集し直した。細部をできるだけ丁寧にツメることで、前回は編集不足だったという私のわだかまりも減った。その作業を森光さんとともにできなかった悔いは、小さな染みのように残りはするが。
装幀は、「本はやはりハードカバーでしょう」と、森光さんが言って譲らなかった上製本。表紙周りの色は、初版本同様、モカ港の青とコーヒーチェリーの赤を基調に、森光さんが敬愛した熊谷守一調の黄色を組み合わせ、雰囲気を和風に仕上げた。森光さんの嗜好には、日本文化と風土に対するリスペクトがあるからだ。
著者不在でつくる本は、例え資料と伝言と想像で補ったとしても森光さんの本にはならない。校正しようにも意見を聞こうにも、森光さんはいないのだ。
ならば思い切って増補ページを設けることで、珈琲屋・森光宗男像に迫ろうと試みた。「蛇足だ」という批判は甘んじて受ける覚悟で、読者に委ねた。
海辺の町からモカを届ける
再版作業の途中、懐かしい写真や文章に、ふと仕事の手が止まることがしばしばあった。以前は響かなかった言葉がスーッと胸に届き、思わず涙がこぼれた。
私の場合、大切なことに気づくのは、いつもそれが過ぎ去った後だ。
原稿をやりとりしていた若かりし頃、きっと、森光さんは編集者としての私を育ててくれていた。だから美美を媒介に、さまざまな人やモノや出来事と引き合わせてくれていたのだろう。ごく自然にさりげなく。感謝してもしきれない恩義を、私はちゃんと返せただろうか…。
再版作業をきっかけに仕事を再開した私は、いま、海辺の小さな町で一人出版社を営んでいる。森光さんが愛した、青く緑色をしたモカ港の海の色とは異なるけれど、ここの海もなかなかラブリーだ。
何を頼りに本を知るのか、全国各地からポツポツと注文が入る。私は読者の姿や暮らす町を想像しつつ、森光さんに代わって奥付に検印を貼る。手紙を添え、梱包し、防波堤沿いの道を郵便局まで自転車をこぐ。
こんなちまちました手作業のクリカエシでは、『モカに始まり』を全国のコーヒーファンに届け終えるのがいつになるのかわからない。天国の森光さんも呆れているに違いない。
でも、〝小さいほど輝くよ〟と言って、小体の店づくりを貫いた森光さんの美学に倣い、私もコツコツ続けるつもりだ。
日々、クリカエシ クリカエス。
倦むことなく、初心な気持ちで、『モカに始まり』と相対する。
それこそが、森光さんの流儀にかなうと信じて。
この本が、いつか誰かの夢を育むことを願って。