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『みんな仲良く』の裏にあるもの

自分の思っていること、好きなこと、好きなもの、そういうのを出していくのが普通になってきている。昔みたいに『カミングアウト』っていうほど力まなくてよくて、その点においてはつくづく風通しがよくなったと思う。
が、これはまだまだテレビやメディアのなかの世界の話であって、一般人の私が現実生活において自分を出せているかといったらそうでもない。

『みんな仲良く』『ともだち100人』にはじまり、
わたし個人は基本的には気持ち悪くて吐きそうになることを世の中にはよしとする人が多いから
『みんな仲良く』って気持ち悪いと思ってる、ってほとんど話せたことがない。

みんな仲良くっていうのは、わたし個人の感覚でいうと『上っ面 of 上っ面』。
みんな仲良くしようよ~って言ってくる人は、『何もいざこざやわずらわしいことが起こりませんように』と思っているだけのように思えてならないのです。たとえば先生がわざわざこれを言うときは、まず間違いなく『みんなが仲良くすること』よりも『この場が波立たないこと』が大事。先生には悪いけど、わたしはそう思っている。

こういう話をしないでいたのは、昔こういう思いを話したことで「うわぁ…性格悪い」って言われた記憶があるからだと思う。
そうかわたしは性格が悪いのか。いまとなっては別に誰かにそう思われていようがどうでもいいことだけれど、当時のわたしは引っ込めてしまったのですね。思うことはやめずに、言うことをあきらめた。

『ケンカはダメ』もそうで、ケンカしないとわからないこと(暴力もあった時代の生まれですが、今の規範だと暴力はダメ)がある。
する必要があるケンカもある。それなのに第三者に割って入られてしまうと、当人どうしは不完全燃焼で、なんとなくなだめられて、なんとなくうやむやにされて、なんとなくお互いにあやまれとか、お互いに握手しろとか言われて、はいはい仲直りしました~よかったね~って『まわりが』思ってる。当人たちはどうでしょうね。


ケンカを止めたい人は、ケンカを見たくない人だ。ケンカを見て、ざわざわする人だ。当人どうしがハラをわって言い合うことがこれからに必要だとわかっている人たちなら、安心して見守ると思う。



うちの両親は『仲が悪かった』。殴り合いはなかった。毎日の言い合い=ケンカ、だと子供のときは思っていたけど、そうではなかったと思う。なぜなら、対等ではなかったから。では『いじめ』であったか。そうでもなかったと思う。歪みに歪んだ関係性のもと育った私たちきょうだいは、小さいときから「はやく別れればいいのにね」って言ってた。実際はいまも仲はよくないまま一緒にいるのだけれど、それでもいいと思っています。そう思えるようになるまでにはずいぶん長くかかりましたが。



上っ面を重ねてなんとなくうまくごまかそうとしてきたことが『無理』になって起こるのが戦争のような気がします。誰かが書いた台本どうしのやりとりでなく、駆け引きなく、自分のことばで話せていたら。そしてそれが代々続いていたなら。
おとぎ話にでてくるように、ほんとうにめでたしめでたしな世界もありえると思うのです。
さて、みんな仲良く、に対してこんなふうに思っているわたしは性格が悪いでしょうか。それならそれで、かまわないと思います。


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