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in lak'ech

in lak'ech  
インラケチ。
古代マヤの言葉で
「わたしはもうひとりのあなたです」
「あなたはもうひとりのわたし」


どこまでもとけあう感覚というよりは
『わたしは あなたをとおして わたしを見る』という感覚でとらえています。
自然とわたし。世界とわたし。歴史上の人物とわたし。小説の登場人物とわたし。

この言葉に出会う前のわたしは、ただただ、親友と呼べる人や愛する人たちと、どこまでも深くわかりあいたいと思っていたような気がします。
人間関係はひたすらに狭く深く。
何もかもわかっていたいし、わたしから手を離すことはぜったいにないと。
彼の裏切りと本心を知ったときも、死なばもろとも、というぐらい振り切った感覚でした(死ななくてよかった)。
「どこまでも深くわかりあうなんてできるはずもない」というあきらめを全細胞で知ってから二年ほどして、
この言葉、in lak'echに出会いました。

鏡うつしの自分。
どのような文化圏に暮らしていようが、性別が何であろうが、
もっと言えば人間だけでなく種別を超えて草花や動物をとおして
わたしは、わたしを知ることができる。

ただ向かい合うだけではだめで
ただ見えているだけではだめで

相手を自分としてみることができた瞬間、はっとすると同時に自分のなかにあたたかな血が流れているのを感じる。鼓動や呼吸、考えなくてもできている、自分を動かす大いなる力の存在に思わずひれ伏したくなるような、そんな体験が起こる。

(この記事には今後なんども加筆修正を加える予定です)

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