ナチュラルって何だ
昨日の投稿からまだひっぱります。せっかくの休みを私は何に使っているんだと思いつつ、違和感の正体に近づきつつある気がします。
ナチュラルに生きている人たちがいる。そして、ナチュラルっぽい人たちがいる。この人たちはだいたい一緒にいる(行動をともにしている)のだけど、なにが違うのか。
ナチュラルな生き方をされている方々はまず、ハラがすわっているのですね。優しいし、穏やかではあるけれど、大地に根をおろし、現実的に現実を生きている感じ。頑固な人もいるけれど、ちゃんと言葉が通じる。
わたしがそれとは違うと思っている、ナチュラルっぽい人たちは、はだしで、綿や麻の服を着ていて、化粧っ気がなくて、ヴィーガンで、食にこだわり、大地に根ざしているようにみえて、ひとつもグラウンディング力が感じられないのです。どれだけ自然とともに生きているといっても、ふわふわしているようにしか見えないのです。たぶん数センチ浮いてると思う。
自分のこだわりについて主張はする(しかもつよく)。でも人のこだわりは受け入れない(ぜったい)。言葉が通じない。おんなじおんなじ雰囲気の、おんなじおんなじな人たちが集まっているから私は近寄りたくないと思ってしまう。遠巻きにしています。この『ぽい』グループは移住歴の浅い人たちで構成されています。
*かつて肉食を断ち、ベジタリアンをやってみたことのある私ですが、はじめるときも、やめるときも自分で決めました。やってみてわかったことがたくさんあって、それは、やらなければわからなかったことばかりです。なのでその経験にはものすごく感謝しています。
いま、ちょっと怖いなと思うのはその『ぽい』人たちの勢力がすごいいきおいで拡大していることです。もちろんその中にもいろんな人がいることはわかります。だけどその中のルールで生きていて、ほかの社会との接点を持ったときに一切の融通がきかない。これはシンプルに怖いです。
地球暦の話をすると、この『ぽい』人たちが寄ってきます。寄ってくるだけですけど。地球暦は宗教ではないし、特定の思想に基づくものでもありません。
よく各地域でひらかれているお話し会にお昼はヴィーガンランチ、とかの記載がありますが、それは全国の販売店に強制するものではないと思っています。トンカツ食べながら地球暦の話したっていいし、プリンアラモードだっていいはずです。そのときそのときを大切に、トンカツをとおして、プリンアラモードをとおして、暦を語り合えばよいと思っています。
まぁ、プリンアラモードは普通に食べづらいからやめたほうがいいかもだけど。
ナチュラルって何だろうね。また引き続き。