ボクもキミだから
「サイボーグ」の考察記事に続き同記事内で触れた、過去にTwitterで投下した「金星」についての考察をこちらに掲載したいと思う。文体をnote向けに手直ししたところはあるが、ほとんど丸載せになってしまうのでご容赦願いたい。
はじめに
最近元P-MODELメンバーの秋山勝彦がTwitterのアカウントを開設し、毎日のように更新頻度で気軽にツイートを発信している。その中には当時のP-MODELに所属していたときの心境や平沢進に対する意見なども結構あるが、ほとんどがあまりいい思い出とは言えないもので中には平沢を茶化すような内容もある。そのせいかしばしば一部の馬骨からは「秋山がヒラサワが嫌いなんだ」と受け取られ、いい印象を受けていない。しかし思うにそれは違うだろう。そんな奴のライブに毎度毎度わざわざ行くはずがない。なんだかんだ言って秋山さんはミュージシャンとして平沢が好きなのだろう。ただ、それは「音楽使いヒラサワ」としてではないのかもしれないが。 秋山が新バンド「P-MODEL」のメンバーに抜擢され平沢達と共に活動する中で、彼は平沢の良くも悪くも「普通の人」としての側面を幾度となく垣間見るようになったのではないだろうか。あくまで憶測ではあるが、それでも平沢が「変なヤツ」としての面をバンド全体として強調していくことに次第に嫌気が差していったのかもしれない。結局のところマンドレイク時代から平沢達のファンだった秋山はP-MODEL結成以降段々と「平沢とは合わない」と考えるようになり、その態度は外面にも出るようになった。デビューからわずか1年ほどで秋山が受験を名目にP-MODELから外されたのは、こういったことが原因であるのかもしれない。
磨耗しゆくバンド
前置きとして秋山を例に挙げたが、P-MODELのメンバーで平沢と活動していくうち不満が募っていったのは秋山だけではなかったはずである。中期P-MODELのキーボード担当であった高橋芳一のツイートからもそれは分かる。何よりCG年賀状や、フジロック前にツイートしていた過去についての言及のような、平沢本人の発言が一番の証拠であろう。
平沢自身もまたバンドという人間関係が幾度となく不全を起こすことに苦悩していた。理解者だった田中靖美も脱退し、メンバーを何度入れ替えても不全を乗り切ることはできなかった。そして、結局同じメンバー構成で安定することがないまま、1988年にP-MODELは凍結した。これについて平沢は過去に、
「誰もついて来れなくなった」
「一人で活動をした方が良いことが分かった」
といったコメントをしていた。この発言は自分の事だけを考えてされたものではないはずだ。P-MODELでの活動に耐えられず一人また一人と抜けていくメンバー達を一番長く見続けてきたのは他の誰でもなく、当然P-MODELのリーダーとしてそこに居続けた平沢進である。彼らを見て、「自分のような人間がバンドのリーダーに居るばかりにいつも不和が起こるのだ、自分はバンドを作るべきではなかった」という考えに至ってもおかしくはない。つまり前述の発言は、
「(自分という碌でもない人間に) 誰もついて来れなくなった」
「(無理にバンドを続けてこれ以上メンバーを追い込むくらいなら) 一人で活動をした方が良い」
という自嘲のニュアンスを帯びた言葉なのではないか。今なおP-MODEL復活を頑なに否定し続けているのもこのためだろう。自分のため以上に、付き合わされるメンバーのためにこそP-MODEL復活を拒んでいるのだ。
未練と2つの実験
だが、平沢にP-MODELへの未練がないわけではないのだろう。何故なら核P-MODELが、P-MODELの「亡霊」だからだ。未練があればこそ、「亡霊」という表現は使われるのだ。バンドという「実体」を失い、実質別名義のソロ活動という「霊体」のようなこのユニット、核P-MODELが15年間も現世に留まり続けているのは、平沢にP-MODELとしてやりたかったことへの「未練」があるからに他ならない。
そこで以下のような仮説を考えた。
P-MODELが凍結した後ソロで経験を積んでいくうちに、解凍以前の段階で平沢には核P-MODELのようなソロでのP-MODEL的活動の構想が芽生えていったのではないだろうか。
そして解凍期・改訂期はそのためのある意味での「実験」だったのではないか。
先程述べた通りP-MODELを凍結した時点で、平沢に誰かを巻き込んで音楽活動をすることを避ける気持ちがあった反面P-MODELに未練を抱いていたことと、解凍以後のP-MODELの活動が非常に実験的だったことが根拠として挙がる。
まず1991年に第1の実験として復活した解凍P-MODELは、藤井ヤスチカ以外は元P-MODELのメンバーだったが、2年という活動限界を予め設定した上での再開だった。最初から終わりを設定しておくことでメンバー間の紛糾を軽減しようとしたのではないか。秋山のツイートから、やはりここでも何かしら不和はあったのだろう。だが、あくまで表面上のことではあれど結果的に解凍Pは同じメンバー構成を維持したまま2年間しっかり走り切り、無事に待機状態に入った。
そして1994年に第2の実験、改訂P-MODELが始まった。こちらでは東京にいる平沢と関西の小西健司・福間創が別々に音源を作り、オンライン上でそれらをやりとりするという形がとられ、筆者の記憶が正しければ実際に会うのはライブの時くらいであったはずだ。その結果、事務所との衝突やライブの出演キャンセルなど不穏な出来事こそあれ、改訂Pはドラム担当の上領亘の脱退以後は2000年に「培養」状態に入るまで続き、P-MODELの中では最長のメンバー構成となった。初期中期では2年間同じメンバーが続くことすら1度あるかどうかであったにもかかわらず、解凍以後は必ず2年近く構成がキープされた。この結果から、これらの試みはP-MODELを長続きさせるための実験として行われたのではないかと考えられる。
バンドは、それぞれが別々の楽器を担当することで、一つの音楽を作り上げ聴き手に届けることが出来る。しかし、別々に奏でられた音達が一つの音楽を作り上げるには、ある程度統一された意思が必要になる。にもかかわらず、メンバーそれぞれが聴き手に伝えたいものというのは大なり小なり異なる。当然演奏する曲の解釈も各々異なる。一つの解釈に従う演奏は、もう一つの解釈の演奏と衝突するおそれがある。それゆえ、バンドのメンバー間の衝突も同様にほとんど避けられないものである。それこそがバンドであり、だからこそ短命に終わるバンドも多い。P-MODELもそうだったのだろう。やはり長くは続かず、次第に平沢一人のバンドになっていった。平沢は、「P-MODEL」や「平沢進」に憧れメンバー入りし、自分のやりたいこととの齟齬、葛藤によって次第に限界を迎えていくメンバー達を顧みて、
「メンバー同士の関係に一定の距離があれば『バンド』は長続きするのではないか」
「自分が表現したいものなら自分一人でやればいい、そうすればきっと他の皆も同様にそれぞれの表現に打ち込めるはずだ」
と考えたのだろう。改訂Pがどのような経緯で培養期に至ったのかは筆者にはまだ分からない。だが、1996年に個人事務所を設立し、1999年にはレコード会社すらも切り捨て業界のあらゆるしがらみを捨て去った平沢に、もはや他のメンバーを巻き込む理由は無くなったのかもしれない。つまるところ平沢は、互いに近付き過ぎたことで疲弊していった自分を含むメンバー達を思った上でP-MODELを凍結し、たった一人で核P-MODELを始めたのではないだろうか。
この歌を、地の果ての民へ
最後に、ソロデビューアルバム『時空の水』のラストに来る曲、「金星」の歌詞をそういった経緯を踏まえつつ見ていきたい。
まず金星という惑星についてである。金星は地球とほぼ同じ大きさと質量を持っているにもかかわらず、地球より太陽に準位1つ分近づいた位置に存在していたばかりに、地表は焼け、水は干上がり、硫酸の雲が空を覆う「死の星」とでも言うべき様に成り果てた星である。この惑星を他者との距離感に喩えて歌った曲、というのがよく言われている解釈だ。本解釈もそれに従う。ただ、今回はそこからさらに踏み入って、作曲当時の平沢自身が持つ背景の中での「ボク」と「キミ」についても考えていきたい。以下が「金星」の歌詞である。
朝が来る前に 消えた星までの地図を
キミへの歌に変え 地の果ての民に預けた
舟よ急げよ 西はまだ無窮のさなか
眠りから見晴らせば宇宙は キミを夢見て
ボクらの間に 変わらないものを数え
約束にくらみ いくつもの橋を渡った
あの日から消えた 星が今川面に映る
水かさよ増せ 溢れ キミへとボクを埋めて
いつか陽を仰いで 消えた星が見えた日は
地の果てに預けたあの 地図の歌をうたおう
”ボクはキミだから”と
”ボクはキミだから”と……
明けの明星、つまり金星は日の出とともに日光にかき消され見えなくなる。しかし当然消えてなくなったわけではない。時折昼の空に見えることもあれば、長い長い周期で太陽面を通過し、太陽に影を作ることもある。
この金星の性質を踏まえて考えると、このように読むこともできる。
金星とこの地球を「キミ」との関係に喩えた歌を広く人々に預け、まだ間に合ううちに「キミ」へ届けんと「ボク」は舟を急がす。
「キミ」と「ボク」はそれほど変わらなかったはずだ。だが「ボク」は約束を果たさんと躍起になり、道を違えてしまった。
それでも太陽と地球と金星が並ぶように、いつかもう一度肩を並べられるはずだ。
その時に歌うのがこの金星の歌だ。
ボクもまた、キミと同じ「金星」だから。
だから共に帰ろう。
「地球」へ。
「いるべき場所、あるべき関係」へ。
このように噛み砕くことで、先程のヒラサワとP-MODELの話と合わせて考えられる。
眩しきP-MODELに憧れ、互いに近付きすぎたばかりに干上がっていったメンバー達。楽しかったはずのかつてのP-MODELの姿に再び近づこうともがき、苦しみ続けた平沢。
他のメンバー達にとって平沢は「太陽」に見えたかもしれない。だが、平沢もまた「金星」だったのだ。だからお互い「地球」に戻り、それぞれの道を行こう。無理にバンドであろうとする必要はないのだ。
といったものが浮かび上がるように思える。ここで描かれた距離感は後のソロ曲にも影響を与え、「行こう、すれ違おう」などに代表されるフレーズを生み出していく。
……しかし、地の果てへと預けられたこの歌は受け取るまでもなかっただろう。平沢の苦悩もきっと、メンバー達に少なからず感じ取られていたことはずだ。ならば、秋山さんが発信せんとしていることは恐らくこうだ。
「氏にあまり憧れるなよ。彼にとっても、君にとっても良くないぞ。秋」
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