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人魚の信者の舟旅

 正直、登録していきなりこんなタイトルの記事を書くのはちょっと気取りすぎかもしれないという思いはある。しかし、こういった文章を書くためにnoteを始めたのでここは通させてもらいたい。
 さて。先程の「こういった文章」とは、所謂考察、特に平沢進の曲やアルバムなどの考察である。以前はTwitterで思いついた順にポツポツとやっていたのだが、如何せん文字数制限がある。金星の考察をした時は十何個もツイートをツリーにぶら下げることになった。馬骨の知人が読んでくれたおかげであの考察はかなりの人数に共有されることになったが、やはりこういった形式の方がやりやすいということで、noteを始めるに至った訳だ。

はじめに

 では、そろそろ本題に入ろう。
 馬骨の方々はタイトルでお察し頂けるだろうが、初回ということで言わずと知れたあのP-MODEL時代からの名曲、「サイボーグ」の考察からこのnoteを始めることにした。
 だが考察と一口に言っても、この曲の歌詞からそこに込められた意味を考えるだとかそういうつもりは無い。何故ならこのサイボーグに関しては少し特殊だからだ。説明の前にまずはこの曲の歌詞を軽く載せておこう。

あきらめに行こう 人魚の信者の舟で
人の世は赤い太古の噴火のエコー
Love you ほら吹き 夢も見えたはずに
お土産は吹き矢 バスの駅から放つ

明日までに消える石の橋の上で
折り紙に折った長いダイヤグラム
Love you ほら吹き 空も飛べたはずに
お土産は磁石 夜の砂場で回す

 といった歌詞である。ここではっきり言ってしまうが、全く意味が分からない。それもそのはずだ。伝わっている話によれば平沢は、曲のオケが出来上がりさぁ今から歌を録音するぞ、というギリギリの所で、リズムに合う言葉を思いつくままに当てはめていくことでこの歌詞を一から書き上げたのだ。故にそこには明確な製作意図が表出しない。この歌詞にどういう意味が込もっているかなど、平沢当人にすら分からないはずだ。しかし、ただ分からないだけの曲がこれだけ長い間アレンジされ演奏され続ける訳が無い。サイボーグが収録されたアルバム『KARKADOR』がリリースされたのは1985年、最後にサイボーグが演奏されたのは2017年 (ライブ「第9曼荼羅」)。その間平沢進が辿ってきた音楽の変遷───中期P、凍結期、解凍P、タイショック、還弦、会人───と共に、実に32年間にわたりこの曲は変わり続けてきたのだ。この考察の動機はそこにある。平沢にとって、サイボーグはどのような位置付けにあるのか。それをこの記念すべき第1回目の記事のテーマとしようと思う。サイボーグという曲の歴史が長い故に考察材料も非常に多く、大変冗長な記事となってしまうかもしれないが、どうか御容赦願いたい。

無意識が産んだ詞
─── P-MODELにおけるサイボーグ

 まずは作詞作曲された当時の平沢進の背景について考えていこう。
 P-MODELの6thアルバム『KARKADOR』がリリースされた時期にあたる1980年代中頃は、ワンマン化していくP-MODELに平沢が活動意義を見出せなくなり、精神的に非常に不安定になっていった時期でもある。P-MODELの結成から数年が経ち、平沢にとって無二の理解者であったキーボード担当の田中靖美が1983年に脱退したことがその大きな要因となっていた。当時平沢は精神治療を受けており、それは創作活動にも大きく影響を与えている。1984年にリリースされた5thアルバム『ANOTHER GAME』は、聞き手をリラックス状態に誘導する療法を真似た語りに始まり、最後はα波を誘発させる静かなインストゥルメンタルで終了する。同年発表されたカセットブック『SCUBA』には、眠りや夢、集合的無意識などユング心理学に基づいたテーマをベースに作られた曲が並んでいる。この二枚はほぼ全て平沢進一人のみによって作られた曲で構成されており、当時の平沢の状態が特に強く反映された作品だと言えよう。『KARKADOR』もそういった背景と地続きに生まれたと考えられる。この頃の平沢は精神治療の一環として夢日記をつけており、曲の歌詞にそれを利用していたと言われている。サイボーグの歌詞もその手法で書かれたものだ。つまり、サイボーグは完全なる平沢の「無意識の産物」なのである。中期P-MODELの時期から現れ始めた平沢進の歌詞の抽象化傾向は、ここで遂に作曲者本人の意識からも離れる段階まで及んだわけだ。これは推測だが、平沢は作曲した自分自身でも正確に理解できない曲をバンドとして演奏することで敢えてメンバー各々の解釈に有意なばらつきを作り、それらをぶつかり合わせることでワンマン化を脱却、つまりP-MODELの「バンドらしさ」を再び取り戻そうとしたのではないだろうか。いずれにせよ、サイボーグはその後1988年にP-MODELが凍結されるまで定番曲として定着していくことになる。解凍後もメンバーの入れ替わりによって新たな解釈が生まれ、アレンジも様々になされた。
 サイボーグで用いられた「無意識を用いた作詞」は、その後彼のスタンダードになっていく。1980年代中盤以降、平沢の作詞は「まず曲を作り、その音とリズムに合わせて仮歌を置いてから、語呂や韻がちょうど良い言葉を歌詞として入れていく」という方法論をとっている。そうすることでサイボーグ同様、より曲に馴染んだ形で聴き手の耳に言葉が届き、聴き手もまた呼び覚まされた各々自身の内面によってその音楽を自由に咀嚼することになるのだ。

抽象性と投影
───ソロにおけるサイボーグ

 前述の通り、サイボーグはソロ活動開始以後も演奏され続ける。単に人気がありライブ映えする曲だということもあるが、ソロのライブでP-MODEL時代の楽曲を演奏する回数自体が少ないにもかかわらず、サイボーグの演奏回数に関しては実に20回以上。この数字はP-MODEL曲の中でダントツの1位である。次はこれについて、近年の平沢の音楽活動にスポットを当てつつ考えていこう。
 昨年の夏、平沢がフジロックフェスティバルに出演し大変注目を浴びたというのは未だ記憶に新しい。その際結成されたバンド「会然TREK」は、「会人」と呼ばれる様々な覆面を付けた"正体不明"の二人のメンバーと平沢によって構成される。会人の仮面には様々なバリエーションがあり、兎に角平沢以外のメンバーの素顔が見えないというのが大きな特徴である。極めつけに今年2020年に大阪で開催されたライブ「2K20▼02」では、舞台上のスタッフまでもが覆面を付けている。
 このようにしている理由について平沢は、「演奏者の顔、表情を隠すことで観客が自身の内面を投影しやすくなる、この力関係は音楽の性質に近い」といった趣旨のことを語っている。平沢進の楽曲は、作った本人すらも明確に製作意図を言語化できないほど高度に抽象化された歌詞によって聴く者の投影を促す。前項で述べたサイボーグの背景は、まさにこの発言に対する好例と言えるだろう。つまり、会人のコンセプトはサイボーグと共通のものであるということになる。
 ところで会人が初めて平沢のライブに登場したのは、2017年のTwitterフォロワー9万人記念ライブ「第9曼荼羅」である。大阪・東京で計5日間にわたり開催されたこのライブで一番最初に演奏された曲 (つまり大阪公演初日の1曲目) は、何を隠そうこのサイボーグである。さらにこのライブが終了した際に配信された記念楽曲にはなんとサイボーグの逆再生が用いられている。これは偶然ではないだろう。サイボーグはここで、会人という類似した性質を持った文脈によって平沢の中で再解釈されたと言える。
 ソロ活動の始動から現在に至るまでの30年余りの中で、これと似たような事が何度も起きているとは考えられまいか。例えば、第9曼荼羅より前にサイボーグが演奏されたのは2012年、「PHONON 2555」だ。この3年前 (2009年、いわゆる「黄金の10年周期」) に平沢は「還弦主義8760時間」というプロジェクトを行っており、2000年以前に作った曲のいくつかをストリングスによって管弦曲風にアレンジしていた。PHONON 2555でのサイボーグはまさにこの「還弦」の文脈による再解釈を経てアレンジされた曲と見られる。このように平沢は、長い活動の中で新機軸を見出すたびにサイボーグと向き合い、再解釈を重ねている───つまり先ほどの「音楽の力関係の性質」に照らして言えば、観客やその他のメンバーだけでなく平沢自身もまたこの「無意識から生まれた歌」にその時々の己の内面を投影しているのではないだろうか。そうしてP-MODEL凍結以降単独での活動を続けていくうち、その投影はP-MODELの曲であった筈のサイボーグをいつしかソロにおける音楽のテーマと地続きなものへと変えてゆき、遂にはソロ曲同然に扱われる段階に至ったのだろう。

 ソロ活動と並行して動いていた改訂期のP-MODELで一度もサイボーグが演奏されていない事もそれを裏付けている。ちょうどこの時期は平沢がタイでSP-2と出会い、創作に多大な影響を及ぼす程の衝撃を受けた (俗に言う「タイショック」) 頃に一致する。1995年のソロライブ「SIM CITY」ではThai ver. と銘打ちリアレンジされたサイボーグが演奏されている。2007年までサイボーグはこのアレンジで演奏され続けたことから、SP-2 (第2の女性) との邂逅がサイボーグのソロ曲化に大きな役割を果たしたことが推測される。
 ユング心理学に登場する「元型 (英語で archetype)」や「アニマ (男性の無意識下に存在する女性的な側面。人魚やギリシャ神話のセイレーンなどがその象徴とされる)」といった概念がこの頃のソロアルバムには多く盛り込まれているが、その中の代表的なものとして、「Archetype Engine」を例にとろう。前述の通り archetype はユング心理学の用語である。その意味や曲の歌詞から、タイトルは恐らく、女性へ還らんと願った SP-2たちを遂に生まれ持った男性の身体を捨てる決断へと至らしめた、彼女らに棲むアニマの壮絶なエネルギーに感銘を受けてつけられたものだと考えられる。ここに入っている engine という語句や、歌詞の中の「アンドロイド」、「ヒューマノイド」、「She was made in Malaysia」など、機械のようなニュアンスを帯びた言葉がこの曲には多く用いられている。これは、内面に女性性を持ちながら男性の身に生まれ、性転換手術によって女性の身体へと帰還したSP-2の在り方と「サイボーグ」という言葉のイメージがつながったためではないだろうか。さらに、「人魚の信者」という歌詞もここで「アニマ」とつながる。タイでの出来事によってより深化した「自身の無意識の声に耳を傾け、つながる」という平沢進の音楽のテーマは、文字通りこの無意識の詞を捉えたのだろう
 話によればタイのキャバレーで初めて SP-2 の踊りを見たことが、Archetype Engineを始めとする楽曲を作ったきっかけだったそうだ。きっとこの瞬間、人魚の信者の舟はアンダマンの海を越えたのだ。

舟旅の行く先

 改訂P-MODELが始動した年 (1994年) にリリースされたリアレンジアルバム『SCUBA RECYCLE』の中で平沢はこう語っている。

不純物の多い私の想像力に比べて、無意識はいつでも天才です。

 「サイボーグ」から今年で35年。平沢は、常に己の内なる天才たる無意識と向き合い続けている。彼に言わせればきっと誰の内にもその天才はいるのだろう。現在に至るまで多くの人がこのサイボーグという曲を考察しているが、いずれの考察も聴き手一人一人がこの曲に自分の内面を投影し、無意識に感じたことを意識によって噛み砕いた結果であり、その行為自体が平沢進の音楽のテーマに沿う有意義なものである。

 次に平沢進がサイボーグを演奏する時はいつになるだろうか。勿論それはまだ誰にも分からない。だが人魚の信者の舟は、きっとこれからも無意識の赴くままに旅を続けるだろう。

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