または、若き天才、マーニー・ハイイエの光と闇
マーニー・ハイイエは、3世紀、正確には、216年4月14日、メソポタミア平原南部のバビロニア地方マルデァーヌ村で、パルティア貴族の父と、パルティア王族の母との間に生を受けた。
東アラム語と中世ペルシア語で羊皮紙に書かれたマーニー教の諸経典は、若きマーニーの天才的頭脳によって組み立てられた、「人工の宗教」である。
光と闇の闘争であるマーニー教は、一時は、世界宗教として、メソポタミア地方だけでなく、中国、アフリカ、インド、ヨーロッパに伝播され、ゾロアスター教のみでなくその後のキリスト教やイスラム教の教理に浸透した挙句、中国甘粛省、新疆ウイグル自治区に存在した、天山ウイグル王国などを最後に、完全に世界中から、消滅した。
時は流れ、20世紀に入り,かつてマーニー教が流伝したユーラシア大陸全域から、マーニー教関連の発見が相次いだ。1902年、ドイツのトゥルファン探検隊は、中央アジアの砂漠から、6-10Cの中世ペルシア語、パルティア語、ゾクド語のマーニー教断片及びウイグル語の断片を発見した。
その後も、中国敦煌で、オーレル・スタインが率いるイギリス・中央アジア探検隊が大量の仏教経典に紛れ中国語の文献3点、ウイグル語経典を発見し、アルジェリアや、エジプトでコプト語の教典が見つかった。マーニー教が「世界宗教」と呼ばれたのにふさわしい翻訳言語数である。
※第二次世界大戦には、大変大きな発見があった。「CMC」と呼ばれる、マーニーの前半生を記述した、貴重な内部資料である。
5世紀ごろ、シリア語から、ギリシャ語に翻訳されたと見られる「CMC=マーマーニー・コーディックス」(訳:マーニーの肉体について)は、1969年、ドイツ、ケルン大学図書館の書庫で発見された。これにより、光と闇の預言者、マーニー・ハイイエの生涯が、我々現代人に明かされたのである・・・
我々は、何処から来たりしか。何者なのか。何処へ帰還すべきか。
良き物語は、語り継がれ、それは我々の血の一滴、肉の一塊と共に、その生を終えるまで、我々の呪われし肉体の内部で、希望の灯火となり続けるのであろう。
3世紀の天才マーニー・ハイイエ
そして21世紀の預言者、村上春樹の書と共に
終