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秋の新社会人を見ただろうか

春にはよく新社会人を見かける。
なぜかわからないけど、「間違いなく新社会人だ!!」と確信する。あなたは新社会人ですか?なんて聞いたりはしていないけど、きっとそうであるはずだ。山の緑が深くなる頃には新社会人を見かけなくなって、世の中に新社会人がいたことさえも忘れてしまう。秋になればなおさらだ。
しかし、当然世の中には秋スタートの新社会人もいるはずなんだけど、やっぱり「あっ!!新社会人だ!!」と堂々と指をさせるような人は見かけない。桜ではなく、田んぼを赤く縁取る彼岸花の隣にスーツ姿の人が立っていても、新社会人だとは思わないだろう。道に迷った人にしか見えない。まぁ道に迷っているという点では新社会人もそうだし、僕自身も同じだ。

あと半年もしたら今の家を離れることになるかもしれない。明確に今の家から離れたいという意思はないし、そもそも今の家はとても気に入っている。6年住んだ今でも「この部屋最高すぎる」と定期的に写真を撮るぐらいなのだけど、永遠に住むわけにもいかないので、そろそろ出るべきなのかもしれないと思った。
数世帯のアパートであるが、いつの間にか僕が一番長く住んでいる。入れ替わりで次々に入居しては去っていくのを見てきた。クソザコフリーレン。隣人といえば、作りすぎた料理を持ってくる人は一人もいなかった。ラザニアとかグラタンとか持ってこないかな。でも耐熱容器系は余らねえよな。うまいから。

当然この部屋にも僕の前の入居者がいて、将来的には僕以外の誰かが住む。「エアコンの設置場所が変だから夏はクソ暑い」とか「窓がゴツすぎて開くたびにすげえ音がする」とかこの部屋のことを知れた気になっているが、実際はどんな経緯でここにエアコンがついたとか、新築の匂いとか、今後ガタがくる場所なんかは知ることができない。家なんてまさに「日常」そのものなんだけど、僕の日常は今後も別の場所で続いていくし、この家にとっての日常も誰かと共に続いていくし。誰かが好きなレイアウトで家具を置いて、夏になると「エアコンの位置変じゃね?」などとぼやきながら新しい日常がやってくる。

昔住んでいた家の前を通った時、誰か知らない人の表札が貼ってあった。写真を撮って懐かしみたい気持ちもありはしたが、そこはすでに誰かの日常。その気持ちは抑えた。家というものは人と違って「またね」というわけにはなかなかいかない。

このnoteをご覧の方がここまで読んでくれているということは、少しでも僕の書いたことに興味を持ってくれたからだと思うけど、みなさんがこの前にどんな記事を読んで、このあとどんな記事を読むのかを知ることはどうしたってできない。
同じことに共感して集まってくれていても、たった数分でみんなそれぞれの日常に帰っていって、全てを知った気でいても知れるのはほんの少しだけ。
ほら、「高級食パンは必ず売り切れる」って言うじゃない。閉店まで残り5分しかないのに「当日分ご用意できます!!」とデカデカと貼ってあるんだけど、閉店時間になったら「完売御礼」って書道っぽい字で書いてる。その5分間に客なんて来てないのにさ、いったいどうやって完売したんだろう。そんなことすら僕は知ることができない。


などと歯医者さんに歯石をとられながらぼんやりと考えていた。こんなに歯石がついていたなんて、僕自身のことでも全然知れていないことかあるんだなと思った。でもこの体で生きていかなくちゃいけないのだ。


ってバンプの藤原基央氏が言っていた気がする。

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