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幾千穀米の孤独

僕の性格を一言で言うと、「丁寧」だと思う。
僕の性格を一言で言うと何だろう?と聞いても、やはり「丁寧」だと言われる。しかし、そもそも性格など一言では言い表せるわけがないし、たしかに間違えたくないから何事も丁寧に取り組んでいると思っている一方、雑な一面も自覚している。その雑な一面を無かったかのように自分のことを「丁寧な人間です」と名乗ることにどれほどの意味があるのだろう。まだ書き始めだし、この記事は一旦ばよえ~んと全消しして、書き直した方がいいかもしれない。
と考えて気付く。やっぱり「丁寧」なのかもしれない。

「丁寧な暮らし」という言葉、最近は悪口のニュアンスをかなり含んでいる気がする。
先述のとおり、丁寧である僕が暮らしていればそれはもう「丁寧な暮らし」な気がするけど、別に僕は山菜がたくさん入った汁なんて好きじゃないし、なんか白米にいろいろ豆だのが入っているやつも好きじゃない。がっつりハンバーグ焼きカレーとかが好きだ。
そもそもみんなそれなりに暮らしに関していえば丁寧だと思うし、「丁寧な暮らし」はなにも幾千穀米イーターだけのものではないから、堂々と白米イーターたちも丁寧な暮らしをアピールしていただきたい。炊飯器に水を入れる時、ジャーをガタガタと揺らして目盛りをミリ単位で線に合わせる者同士ならなおさらだ。


こないだポイート(ポスト及びツイート)したもの。
PTA副会長みたいなおばちゃんの店員だった。
結構チャキチャキしてて明るめのおばちゃんだったんだけど、すごいネイティブ感の低い感じで「Autumn sky」と言った気がした。なんというか、ブルックリンブルックリンしていた。

聞き間違いなのだろうか。それはもはやわからないけど、耳は結構間違う。
目も間違う。見間違いだらけだ。
家に帰るとバナナ味のお菓子がラップに包まれていたのだけど、ありえるわけないのに、ハムスターがラップに包まれているかと思って、ヘビに睨まれたハムのように一瞬固まってしまった。
ひとつの過ちを掘り返されてすぐに晒されてしまう昨今、間違えるわけにはいかないというのに、目も耳も間違いすぎる。でも鼻は正解率高いよね。

「あ!この匂い、嗅ぎ間違いじゃなきゃ金木犀だね!」
などと今まで1回も言ったことない。嗅ぎ間違わないから。
触れ間違いはある。グラウンドに体育座りして先生の話聞いたあと立ち上がる時、おしりがヒンヤリしてる。地面濡れてた?と錯覚するがべつにそんなことない。あれは触れ間違い。

こないだ、町の小さいイベントで吹奏楽部の演奏を聴いた。
少ない人数であったし、楽器のうまさも全然だったので、楽器たちは度々プピィーッ!!とゴミステーションの網の扉を開くときみたいな叫びをあげていた。
吹奏楽のことはよく知らないのだけど、なんかそれが無性に心地よかった。きっと普通に上手な大学生とかが演奏していても素通りしてた気がするけど、プピィーッ!!がなんともよかった。最近、若い人が昔のiPhoneで写真を撮って画質の低さをエモがるムーブと同じ心理なのかもしれない。そういう意味では「エモ」というやつは、失敗や未熟さ、不完全さ等にも寛容な考えだなと思った。

世界ふしぎ発見を見た。
テーマはツタンカーメンとかピラミッドとかそういうやつだった。べつに普段見てないけどピラミッド回なんてもう何回もやりすぎて、ふしぎ未発見で終了してもおかしくないなと思ったが、ちゃんとふしぎ発見していて安心した。
しかし、クイズコーナーではあの強豪、黒柳徹子の正答率が悪かった。しかもピラミッド回。『スワロフスキークリスタル取りがスワロフスキークリスタルになる』とはまさにこのことなのかもしれない。

間違いの中でも大きい間違いが犯罪になるのかもしれない。もちろん犯罪するつもりはないのだけど、僕が犯罪したくないと感じる大きい理由は音楽にある。
犯罪をしてしまうと、とたんに僕の好きなアーティスト(例えばBUMP OF CHICKEN)が僕のために歌ってくれなくなるような気がする。べつに今でもバンプは僕のために歌ってるわけじゃないけど、バンプの歌詞の中の「君」の中から外されるような気になるから。歌詞の中で励まされてもそれは犯罪をせずに真面目に頑張っている人に向けられたものだと感じる。
犯罪したことはないけど、小さいズルとかをした時にもそう感じるから、犯罪をしてしまうともう音楽は聴けなくなるなとなんとなく思う。


仕事の帰り道、もらったブラックサンダーを食べながら帰る。もうすぐ晩ごはんだというのに。
いつもより少しだけおいしくない、黒いイナズマ。おいしさスタンガン級ぐらい。
僕はBUMP OF CHICKENのみんなに謝りつつ食べた。

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