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ショートショート『力強いものだった』

明里さん! 明日、山の頂上にある露天風呂に入りに行きましょう! と言われ、はじめ彼の言った意味が理解できなかった。数秒ほど考えたのち、私は「はい?」と上擦った声を漏らしつつ、右足のギプスを摩る手を止めた。

私こと藤田明里(ふじたあかり)は、会社の営業課で鬼軍曹と恐れられ、表情ひとつ変えず仕事を淡々とこなし、案件をとってくる。いわゆるバリキャリ女子だ。だがこの時ばかりは流石に面食らってしまった。当然だ。こちとら骨折全治三ヶ月なのだ。温泉どころか、山なんぞ登れるか。病院で何を言い出す。

衝撃と呆れ顔がごちゃ混ぜになったような顔を見せたはずだが、表情ひとつ変えない私の後輩であり婚約者でもある大鳥翼(おおとりつばさ)の表情は、屈託のない笑顔で満ち満ちていた。時折見せる子供じみた発想には慣れてきたと思ったのだが、私もまだまだのようだ。俯きつつ、彼の肩に手を置く。


「落ち着いて。聞きたいことがありすぎます。まず、なぜ温泉なのですか?」

「だって明里さん、最近疲れているようだったし、温泉にでも行けば気分転換になるでしょう? 温泉街だってきっと楽しいよ!」


私の足は折れています……。と心の中で呟く。


「わかりました。なぜ山なのでしょう?」

「森林浴!」


めまいがしてきた。歩けないんだって、この人は本当に……。


「ありがとう。気持ちだけ受け取っておきます。私は骨折してるんです。わかりますね?」


周りの目からは、さながら教師と生徒である。


「なので私が歩けるようになってからご一緒に……」

「足のことなら任せて、僕がおぶって行けば大丈夫!」


もやし小僧が何を言っているの? と口に出したくなるのを寸前で堪え、両手を彼の前に伸ばした。


「待って、心配をかけていたことも申し訳ありません。ですが、それはまたの機会に……。足が治ってからにしましょう」


半強引に話を終わらせようとした。しかし普段は聞き分けのいい彼なのだが、今回は違った。


「……ごめん明里さん、今回ばかりは僕、いや俺……どうしても行きたい!」


急に目元をこわばらせた翼の顔が間近に迫ってきた。


「ッ!」


明里は、翼の時折見せる男の顔にめっぽう弱く。仕事一筋の彼女が、プロポーズを承諾のも、つまりそう言うことである。

それよりもなぜ彼はここまで凄んでくるのかがわからない。思い当たることといえば、昨夜の出来事。彼との帰宅時に階段から落ちたこと、それしかないのだが……。いや理解できない上に今の彼は自分勝手すぎる。


「痛いんです。とても楽しめません。わかってください」


明里の口調が少し強くなった。


「ううん、僕がなんとかする。だから行こう!」


尚も追い迫る翼に、少々腹立たしくなってきた。


「無理です!」

「俺も無理!」


この! 明里は奥歯をギュッと噛み締めた。


「子供じゃないんだから理解してよ! 無理! 足痛いの見たらわかるでしょ、そんな
に嫌な思いさせたいわけ、私が何かした!?」


我慢にも限度というものがある。だがここは病院だ。


「ハッ……す、すみません」


気づいた頃にはもう遅かった。周りの視線が痛い。目頭が熱くなる明里は、顔を足に埋める。


「ごめん明里さん、でも……行こう」


まだ言う。わかったから、お願いだからもう喋らないで、周りも見てる! と明里は心中で嘆いた。


「明里さん?」

「わかったから、行くから、少し静かにしてよ……」


涙ながらに小声で答える明里。根負けである。口調が変わるほどに冷静さも欠いているが本人は気づいていない。


「ごめん、もう泣かせたり痛い思いはさせないからね……」


彼の言葉に明里は反応しなかった。これが彼女にできる精一杯の仕返しとなった。

翼は受付から呼ばれた明里の代わりに会計を済ませ、トイレに行くといいその場を離れた。翼は「ふぅ、ちょっと強引すぎた、よね……」と脱力し鞄の中身を確認し小箱を掴み取る。静かに微笑むとすぐさま険しい表情へと変えた。自分の顔が映る鏡を見つめ、両頬めがけて思いっきり叩く。

昨夜、彼女が目の前で転げ落ちた時、いなくなってしまうのではと不安になった。


「あの時、俺がしっかり手を繋いでいれば……」


翼の頬に綺麗な紅葉が出来上がる。

明日は十一月二十二日、雲ひとつない晴天。夜には山頂から見える星々がとてもロマンチックな絵を映し出す。


「ふぅ」


翼は小箱を上着のポケットに入れ、トイレをでた。


「あなたは本当にもう!」


病院を出てすぐ、明里は僕の頬の紅葉を機にすることもなく、烈火の如く怒鳴り散らした。

対して後輩モードの翼はそれを真摯に受け入れる。当然だ。どこの世界に怪我をした彼女を温泉に、山になど誘うものか、明里のような器の大きな女性でなければ僕なんてとっくに別れを告げられているはずなのだ。感謝してもしきれない。だからこそ、今度はそばで彼女を守れるように……。

翼の決意は変わらない。それは内ポケットにしまった小箱、ダイヤのリングを砕かんばかりに力強いものだった。

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