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わたしたちの夢見るからだ【第十四話】:よく人と会うようになった/自分をゆるせない夜に【後編】

 24歳頃だった、死にたい気持ちがあたりまえになった頃に、何かすがるものが欲しくて、ようやく精神科にかかった。

 医師に言われるがままアルバイトをやめ、よく分からないまま薬を飲んで、ひたすら横になって、スマホでテトリスかツイッターをしていた。

 じきに生活が維持できなくなり、実家に戻っても暮らしぶりは変わらなかった。金銭的な負担が減ったことは少し楽になる要素だったが、先の見通しの立てようのなさは全く同じだったし、働けないということには焦りが募る一方だった。家族との関係も良好とは言えず、身体は休められても精神の面で安心し休息を取れている実感はなかった。

 自分で自分のために出来ることがほとんどない。惰性で生きて食べて排泄し眠っては起きてを繰り返す中で、ただ生き続けることの意味のなさがより際立って感じられた。

 そういう生活の中で、ツイッターのみが他者との関わりだった。同じ精神疾患を持つ人たちをフォローして、直接交流はなくともなんとなく日々のつぶやきを見ていると、ひとりきりではないと思える時もあった。長くやっていたら趣味の合う、友人と呼べるような間柄になれる人に出会えたりもした。

 ツイッター経由で人との交流が少しずつ増え、たまに外に出られるようになった。

 生きていることの虚しさも仕事につけない焦りも変わらなかったが、それでも人とのつながりは死にたさから目を離す時間を与えてくれた。

 無職で引きこもり、精神疾患、自分のことを絵に描いたような底辺の人間だと思ったが、それを気にせず友人として扱ってくれる同じような境遇のひとたちにはとても救われた。

 ほぼ引きこもり状態になった24歳の頃から8年近く、病状は低空飛行のままではあるが安定し始め、精神障害のある人のための就労支援などを利用しようか、というようなことも考えられるようになった頃だった。


 当時はツイッターのスペース機能(音声を使って複数人でコミュニケーションができる機能)が実装され始めた頃か。ツイートの文字列でしか交流のなかった人たちと会話ができるのが面白く、またアカウントを相互フォローし互いにツイートを見ているという前提がある人々との会話であるため、自己開示の手間も省け話しやすくもあった。そういったことからその一時はよくスペース機能を通じて人と会話をしていた。

 その日は偶然、友人繋がりで、あるタトゥーアーティストの方と話をした。タトゥーに興味があって自分で彫りたいと昔から思っていた、けれど主に初期費用がかかる面がネックになり、タトゥーを彫るということに憧れたままでいる...という話をした。すると、そのタトゥーアーティストの人はハンドポークという手法について話をしてくれた。タトゥーを彫るにはタトゥーマシンがないとどうしようもないと思っていたので、驚きと共に、タトゥーを自分で彫るということにかなり現実味を感じられた。実践したいのであればなんでも聞いて、という言葉に甘えさせてもらって、細々としたことを都度質問しながら、わたしは自分の肌にはじめてタトゥーを彫った。

 31歳になっていた。

 何かに熱中する気持ちになったのは本当に久しぶりだった。そんな気力はもうこれからの人生において湧いてこないと思い込んですらいた。ただただ単純にとても楽しいというだけで、本1冊もまともに読めないくらい集中力が衰えていた自分が、長時間作業を続けられることに驚きを感じた。楽しいというはっきりとした実感自体、もうずっと長い時間忘れられていたのだった。

 それまでは、人並みの生活もできない自分が何かを楽しんでいいとは思えなかった。まともな生活を自力で送れるようになってはじめて、何かを楽しむことが許されると思っていた。

 だが、その時はもう手の中にある楽しさに夢中になって、そんな躊躇も後回しになっていた。

 思えば、自分に多くのことを許してこなかったのだ。人並みに、あるいは人より余計に「まとも」でいられたらその分だけ、何かを楽しんでもいい権利を与えられる、そのように感じていた。人から見られた自分が「ちゃんとしている」こと、そのような人間になることが人生の目的のようになっていた。その中に本当に自分が望むこと、ただ単純に喜べることが入り込む余地はなかった。

 だが心から楽しいと思えることのない生活、漠然とした不特定多数の他者からの目線を根拠にした自己実現、わたしはそこに生きる喜びを見出すことはできなかった。生きる喜びのない生活は先細りになっていった。

 当たり前と言えば当たり前の話だが、それでも楽しいと思うことを、成り行きで自分に許せるようになるまで、自分にとって楽しいと思うことを大切にできるようになるまで、とても長い時間がかかった。

  ハンドポークタトゥーを教えてもらってから、わたしの生活は少しずつ変化していった。

 よく人に会うようになった。

 タトゥーの関連だけではなく、外に出て知らない人と関わる事が増えた。

 人にほとんど会うことがなかった時には、不特定多数の他者としてのまとまりでしかなかったたくさんの人々と、顔があり、生活があり、心のあるひとりひとりとして向き合うようになってはじめて思うようになったことがある。

 それまで自分がこだわっていた「ちゃんとした」「人並みの」人間、そんな暮らしぶり、そういうものは一体どこにあったのだろう、そんな完ぺきな他者なんて自分の頭の中にしか存在していなかったのではないか、ということだ。

 ただ外を歩いていても完璧な身なりの人間などどこにいるだろう。勿論人々はある程度は綻びを隠し、痛みのないような顔を作って行き交うが、それは他者の目があることを前提とした、マナーや見栄やその他様々な事情によってそのように取り繕われた姿でしかない。

 血の通った人間がひとり立っていれば、出来ること、出来ないこと、知っていること知らないこと、不安なこと、喜び、悲しみ、言葉にできないたくさんの記憶、感覚、ひとりの人の内側にはその人が見る世界の全てがある。

 生きてきたこと、生きてゆくこと、その全てを、行き交う一瞬の後ろ姿から、または言葉を交わした数時間があったとしても、他者が優劣をつけられようはずもないし、むりやり優劣を判断しようとしても、それはまたどうしようもなく複雑な、自分というひとつの大きな価値体型から抜け出しえないあるひとりの他者の視点による、偏った判断にならざるを得ない。

 正解という言葉は、恐ろしいほど頼りない。 

 言うまでもないことかもしれない。だがその言うまでもないことにも、実際に今まで出会うことのなかった多様なバックグラウンドを持つ他者と関わりを持つようになるまでは、思い至ることができなかった。

 自らを長年強く抑圧してきた漠然とした「ちゃんとした人間」と言う理想像が全く中身のないレトリックであることに気づくには、血の通った他者とのやりとりが必要だったのだ。

 そうなってみて始めて、他者に対するある程度の想像力も身につきはじめた。他者の不完全さに思いが至るようになると、自己の不完全さへの強い焦りも徐々に薄れていった。むしろ不完全性こそが個人を形作るものであるし、だからこそ人と人が関わる喜びの根本には個々人の不完全性が不可欠なのだと思うようになっていった。

 完璧な人だけが生きることを許されるのだというある種の被害妄想から解き放たれたことで、わたしがそれまで強く抱いてきた不特定多数の他者に対する恐れは、おおむね親しみに近い形をとるようになっていった。

 みんな生きている以上、何かしらを抱えていて自然だし、それを簡単に開示できることの方が少ないだろう。それでも人は、直接的にあるいは間接的に、頼りあってなんとか生きる。

 もちろん裏を返せば、そこからこぼれ落ちて不本意に個人の生存の意思が断たれることは今この瞬間も起きているだろうし、それをすくいとれる構造が社会に備わってあるべきだとわたしは思う。

 かつての自分が気分(と病状)のありよう次第でいつ自死を選んでもおかしくなかったこと、その時間から地続きで生きてきて今この文章を書いていること。誰に何が起こるか絶対に100%は分かり得ないのだから、誰しも自力だけで生きていられない状況に立たされる可能性がある。それでも生き続けたいと願う時、そのための扶助を実現するための共同体として社会が機能するよう、その機能が剥奪されることのないよう、わたしは強く願う。

 生きてゆけなければ人は死んでしまうから。

 自分が生きていることを、ふと許せなくなる夜は今でも訪れる。だけど今は、それが一種の脳の炎症、病気の症状であると割り切りたい。そう思う理由がある。それはわたしひとりでは持ち得なかったもの、他者存在と関わってはじめて生まれたものだ。

 生きるための強い動機をひとつ選べなくても、ゆるい繋がりや、ある時思いがけずかけられた嬉しい言葉、もう2度と会うことはないかもしれない人が去り際に見せた笑顔、そういったことをなんとなくの息継ぎとして、どうにか、また立ちあがろうと思えるようになるまで休むことはできる。

 自分を許せない夜に人の痛みに思いを馳せる。比べることは不毛だが、ただ、今、自分より苦しい人が、自分より幸せな人が、地続きの世界で息をしているのだ、あるいはかつて同じ場所で知らない誰かが息をしていたことがあったのだ。

 関わったり、関われなかったりするたくさんの人たち。

 もう息をしなくなったたくさんの人たちに、生存を望まれた一瞬が確かにあったからこそ自分がここに生きていると言えること。

 未来がどうなるかわからなくても、何かを完璧にやりおおせることができなくても、ひとりの人が生きていてはいけない理由など本当はどこにもない。

 どうしても苦しい時、いつかの自分が死を選ばないでいてくれたことを思い出す。さまざまなことから逃げて逃げて1人の部屋で泣いていたわたしが、最後の最後にわたしでいることからだけはぎりぎりで逃げ出さずにいてくれたこと。

それが今の自分の世界の全てを形作っていることを思い出す。

 だから苦しくてどうしようもない時は、息をしてやり過ごす。それだけが自分を未来に繋ぐたったひとつの道だったことがたしかにあったから。

 眠れない夜。

 暗い部屋で、息をして、目を閉じる。


執筆者:無(@everythingroii

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