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雨雲の光

午後4時くらいになって、雷が鳴って、今日は雷雨の予報だったことを思い出した。怠惰で昼過ぎにした洗濯物を部屋に入れて、どれくらい降るかななんて空を見上げた。街のほうは薄い雲で、反対側の雲は重い色をしていた。
どうせ後回しにするのにシャワー浴びようかダラダラ悩みながら、適当に時間を流していた。

龍の唸りのように低くて遠くからくる音が聞こえて、幾つも待たずに雨が降り出した。蛇口をひねった空はこの地域一帯を洗った。開けた窓から軒先を眺めると、樹木の緑がいつもより薄く見えた。わたしと樹木の間に降り注ぐ雫がそうさせていた。

さらに雨は強くなり続け、ここ数年で見たどの雨よりも激しい。重くなった花弁が剥がされ、強烈な風で向かいの家に叩きつけられる。水分で壁に張り付いたままだ。数分で風向きは変わり、こちらに向かって刺してくる。屋根が突き出しているけれど、それでも飛び込んでくるので木製の頼りない窓を閉めることにする。危険の睨んだ風景が安全な窓越しに見れるのは、雷雨と動物園、それと宇宙船だけだと思う。スリルなのか、ロマンなのか、説明できない魅力によって、数分の間ただ吹きつける雨を見ていた。

風の向きがまた変わって、少し窓を開けた。ベッドで横になって、雨の音を聞いていた。今さら、雨の匂いがしていることに気づいた。起き上がってスピーカーを手にとって、雨音と同じくらいの大きさに調節して、『バラード』をスタートする。彼のサックスはわたしを浮かべる。ヘッドフォンではなくて、スピーカーで聞くのがいい。料理しながら聞いた藤井隆は玉ねぎを切る音と一緒だったように、過ごした音と混ざるのが好きになった。いまは、ジョン・コルトレーンとこの強く打つ雨を重ねたいと思う。

今日、日本へ帰る彼女は無事に到着しただろうか。この雷雨で出発できていないかもしれない。わたしに何度も呼びかけてくれた彼女が無事に日本へ、故郷へ帰れることを願っている。

日没の時間が近づいて、暗くなった。夕焼けなんて見えないけれど、暗くなった。照明をつけようとすると、点かなかった。停電したんだ。最初に思ったのは冷蔵庫と冷凍庫だった。早く復旧してくれないと食料が悪くなるな、と。降る前に洗濯物を入れるのとあわせて、主夫っぽくなったなと思った。ハウスメイトからも停電のメッセージがあった。たぶん、待つしかないだろう。

雨は止んだ。部屋はさらに暗くなる。窓からぼんやりとした光が入る。光源が隠された空はぼやっと明るい。街の光を反射しているのかもしれない。わたしが沈む部屋より明るい。丁寧に読み残している宮沢賢治を読むことにする。2022年夏の特別装丁で買った『銀河鉄道の夜』は、まだ1篇しか進めていない。2篇目の『よだかの星』を窓際で僅かな光を頼りに、無理して読む。久しぶりの紙の本は灯火だ。紙の本は読書体験をより印象的にしてくれる。手触りとかキズとか、微妙な色の違いとか、昨日読んだ本と確実に違うものを触っている実感を得れる。同じ端末で読む電子書籍とは、体験の重みが違うと思っている。オーストラリアで停電のときに窓際で『ザ・ケルン・コンサート』のピアノを聞きながら読んだことは、長く覚えてると思う。12年前、計画停電でマッチで点けたキャンドルの下、弟と指した将棋を覚えているから。

復旧を待ちながら、雨雲の光にまどろんでいく。