髪を伸ばして、見た話

今日こんなツイートを見かけた。

携帯だと埋め込みがよく分からん

そしてそのツリーにはこの記事へのリンクが貼ってあった。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210416/k10012974451000.html

これについて丁度思う事があり、1年程髪を伸びっぱなしにしていた。
いい機会なのでそろそろ所感をまとめようと思う。

1.事の始まり

2020年5月14日。
馴染みの店で私は半年ぶりに散髪をしていた。
髪伸びたね、コロナ大変だね、残ってる髪の方が少ないぐらい切ったね、なんて言いながら散髪を終えた。

それからまた半年ほど経ったある日、髪を切ろうかなと思い始めた頃に付近でのコロナ話が増えた。
ある程度髪型に自由が利く仕事の為、伸びている事に問題がないことと、そして何より自分が伸びていようがいまいがどうでも良い感性の持ち主である事から密かに「このまま伸ばしたら周囲はどう言う反応になるだろうか」と言う興味が湧いた。
この時対象としていた周囲とは身近な人間ではなく完全なる他人に対しての興味であった。
その小さな実験を心に決め、その足でヘアピンを買いに行った。

2. 結論から言ってしまうと

他人は自分に興味がない、と言うと無味乾燥なので15年ほど前の体験を引き合いに出してみよう。
15年前、私は金髪だったり虎髪だったり赤だったり割とおちゃめな髪色をしていた。
かつ、ジャージが最強だと思っていた。当時はどこに行くのもアディダスのジャージ、そしてサンダル(クロックスではない)を履いていた。
そしてちょっと元気が良かった。
故にそんな風貌で歩く私の前は海を裂くモーゼの如く、非常に歩きやすかった。
当時の感想は「歩きやすいなぁ」しか無かったので深く気にしては居なかった。
他人は自分を見ているのだ。
そこでヘアピンをしたり髪を結んだりと言った今回の実験でもなんらかの反応があると予測をしていたのだ。
結果としてはなんの反応も無かった。目に見える範囲では。
これはヘアピンをしている、髪を結んでいる程度では「まぁおるな」程度の認識になったからかも知れない。確かに「まぁおる」のだ。
だがこの差異からの気付きは「完全なる他人は自分の事を危険か安全かの判断のみしている」と言う事である。
なるほど、危険であれば近づく事はしない。世の人間はみな君子である。
もしくはわずかなサインは出ていてそれを見逃している可能性も否定できない。
仕方が無い、私だって完全なる他人に興味は無い。

3.そして意外にも

近くなればなるほどに、髪の事について触れてくる。
それは一様に「切った方が似合う」と言う意見だった。
これには少しガッカリした。というのも付近からは「こうしてみたら?」と言う次なるアイデアを期待していた部分があるからだ。
だが、とは言え仕方のない話でもある。自分に置き換えてみれば友人に対してその回答を出せるか疑問であるからだ。
自分が出来る自信がない事を他人に期待してはいけないのだ。まぁ、自分が出来ないからこそ期待してしまう側面も存在するが。

4.最初の記事を思い返してみると

なるほど、個性を否定するのは赤の他人ではなくある程度近しい存在なのだ。
うるせぇ俺の勝手だろほっとけよ。そんな事言えないから言い訳をしてしまうのだ。
コロナ禍だからね、冬に切ったら寒いからねと。
そして冬が明け、幸いにも周囲のコロナが落ち着いて来た今、この記事を書く以外に周囲を納得させられないのだ。
そして切ったら言われるだろう。「やっぱり短い方が似合っているね」と。
その言葉に長髪にしたい気持ちを殺された人はきっと想像する以上に多い。
ちなみに私はどうでも良い。

5.今後の課題

私はあまりにも簡単に友人に向かって「髪ながwwwwうざくね?wwww」と言ってしまうきらいがある。
それはきっと私だけではなく、駄文をお読みになっている方にも稀にあり得るのだろう。
多様性の尊重、とは口で言えば容易く軽いものであるのにかくも難しいものである。
まぁそもそも多様性だとかポリコレだとか興味がないので今後も言いたい事言うんだろうと思う。
それでも口に出す前に逡巡出来るよう、この経験を生かしていきたいと思いながら髪をかきあげている次第でございます。

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