荒川修作やばい
「インポッシブル・アーキテクチャー - もう一つの建築史」という「建てられなかった建築」についての展示を見てきました。
キュレーションについて疑問はあったりするのですが、個々の作品解説などはすごく面白く、カタログもとても充実していて総じて良かったです。あと、美術館は黒川紀章の設計でとても奇抜なのですが、館内には一切自販機がなく水飲み場も使えず、展示室で疲れたからといって座る場所もなくやたらと狭くホスピタリティのかけらもない美術館だと思いました。
展示の話。いろいろ興味深かったのですが、わけても興味をそそられたのが荒川修作+マドリン・ギンズでした。
今回出展されていたのは「問われているプロセス/天命反転の橋(The Process in Question/ Bridge of Reversible Destiny)」(1973-89)という、フランスのエピナール市に流れるモーゼル川の橋として構想された模型です。
© 2016 Estate of Madeline Gins. Reproduced with permission of the Estate of Madeline Gins.
黒々とした球体が行く手を阻んでいるしというか全体が黒々としているしうーんなんといっていいのか...「橋...??」という感想しかないわけです。
今まで荒川修作というとALPHABET SKINのような若い頃のアメリカで作っていた作品のイメージで、「取り澄ましやがって」みたいな感想しかもっていませんでした。
ALPHABET SKIN No.3
(画像は独立行政法人国立美術館のサイトより)
荒川修作+マドリン・ギンズの提案する「橋」は見るからに橋っぽくないし、そもそも通れるのか...?というレベルです。しかし、この「通れるのか?」というのが荒川+ギンズの狙いで、橋を渡る必要があるならどうしたって渡るので大人なら体を屈めたりする。身体の使い方を変える必要がある。雑にいえばこういうことがやりたかったように思われます。
カタログに、荒川+ギンズの制作ノートの引用があります。
「このコンストラクションは、ディスクールのまったく新しいかたちを可能にする。従来、たとえば話し言葉においては、話し手ないしその話すプロセスはずっと、言葉の連続の背後に隠れていた」。だがこの作品では「人間の行動や表現に常ながら課せられている拘束を真似るか、あるいは並行するコンストラクションの中に立つと、通常のように言語の一方的発生によって進む必要がなくなり、問題のプロセスと直接的なディスクールに入っていくことになるだろう」と記されている。
何を言っているかさっぱりわかりません。カタログのこの箇所を書いているのは建畠晢さんで、この引用から「エピナールの橋がアフォーダンス的に動作を誘発する装置ではなく、要請された行為の必然性に従うという拘束的な空間の体験をもたらすもの」として解釈しています。
盾突きたいわけでもないのですが、建畠さんのこの記述はおそらく全く逆じゃないかと思いました。まったく「橋」性をもたない橋でも、そこを通るために体の形を変えてでもアフォーダンスを見出すように仕組んでいるのが荒川+ギンズの作品でしょう。体の使い方を変えれば環境のもつアフォーダンスも変化する。アフォーダンスの理解はともかくとして(そもそもぼくもちゃんと理解していない)、建畠さんの記述が逆だと思うのは、荒川+ギンズの提案を「要請された行為の必然性に従うという拘束的な空間の体験」を目的としていると捉えているところです。
ぼくらは普段、規制された空間の中で行動している。ぼくは、この展示を見ているあいだ寝不足もあって途中で非常に疲れてしまってどこかに座りたかったのですが、どこにも座る場所がない。けれども、どうしてそこらへんに座ってしまわないのだろう?環境が「座る」というサインを出してくれなければ座ることすらできないほど、規制を内面化している。普段の都市生活というのは記号にまみれてしまって、環境から新たなアフォーダンスなんて見出さなくなってしまっている。これではまるで、ぼくらの身体活動そのものがデザイナーの手によってデザインされているみたいじゃないか。荒川+ギンズの橋は、こういう規制された身体の活動そのものを挑発するように見えるのです。
そんなことを考えながら、荒川修作について検索していたら、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイブで荒川修作のインタビューがありました。これを読んで、「荒川修作やばい(語彙力)」となってしまいました。
さまざまな有名人との与太話もあれど、荒川修作はやばい。なんか知らんけどおかしい。ぜひこのインタビューを読んであなたも「荒川修作やばい」と語彙力を失ってほしい。
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