8月9日 長崎の日で思い出すこと
8/9は長崎の日、Twitterで書いたら思った以上に沢山の方に読んでいただけて反応もいただいたので、こちらにも纏めて記事にします。
今日は長崎原爆の日。
被爆3世です。
親戚も亡くなりました。
祈りました。
おじいちゃんは話さずに旅立ちました。
おばあちゃんはたった一度だけ話してくれました。
私が小学校低学年の時です。
きっかけはお姉ちゃんに対して喧嘩して「〇んじゃえ!」って言った私「兄弟にそんな言葉使うんじゃなかと!!」って怒ったのがきっかけです。
いつもニコニコのおばあちゃんが…驚きました。
おばあちゃんは兄弟8人のうち、半分を原爆で失ったそうです。
幸運にもちょうど自宅に居て熱線を浴びなかった自分は更にタンスに支えられて運よく出てこれた。
外にいた兄弟は助からなかったそうです。
ぽつり、ぽつりとしゃべってくれました。
おしゃべり好きでいつもニコニコのおばあちゃんがその時は言葉少なくて、どこか遠くを見て思い出しているようでした。
今でも覚えています。
ただ何度も「運が良かった」と言っていました。
「自分は幸運だった」と。
熱くて熱くて自分もガラスでケガをしているのに、被災したのに、血だって出たのに「幸運だった」って、そんな世の中だったのでしょうけど…そんなの余りにも過酷です。
小学生だった私は想像しただけで怖かったです。
その日は夢に見ました。
子どもの想像力なので多分貧弱なんですけど、そこは地獄でした。
多分夢で再現したのは平和学習で見た被ばくされた方の写真です。
長崎では平和学習で本物の写真を見ます。
背中や顔に大やけどを負った方々・・・でも生きている、そんな写真です。
真夏のコンクリートの熱とかも「熱い」の参考になっていました(本物はそんなレベルじゃないですけど)。
おばあちゃんあの地獄の中生きててくれてありがとう。
お陰でおばあちゃんの子どもは5人、孫は20人以上、ひ孫も生まれて最後は大家族に囲まれて旅立ちました。
ただ、最後はガンでしたね(年のせいなのか、被ばくが関係しているのか…)。
苦しみましたね。
最後のやせ細ったおばあちゃんを見てショックでした。
でもおばあちゃんで思い出すのは、ぷっくりした優しい手でニコニコしながらお料理していて、私も台所でお手伝いして一緒にお饅頭を作ったこと。
いつも「おかえりなさい」って言ってくれる暖かい場所だったこと。
私に「書道を・絵を続けなさい」ってずっと応援してくれたのはおばあちゃんでしたね。
親が色々言っていてもずっと応援してくれました。
「才能あるから続けなさい」って言ってくれて、大学進学も応援してくれた。
階段に飾ってあった鶏の絵が私の目標でした。
南画を習っていたおばあちゃん。
あれはおばあちゃんの絵だったんだね。
亡くなってから親に教えてもらいました。
南画を見て育ったって美術協会で話したら南画部をはじめ皆さんに可愛がられましたよ。
おばあちゃんが繋いでくれた命、繋がり、今も続いています。
今年もおばあちゃんの兄弟に祈りました。
会えなかった兄妹・・・・大きくなったらどうなっていただろう?
そう思いながら、目をつむりサイレンを聴きました。
以上がTwitterに投稿した内容です。フォロワーさんから反応沢山いただきました。読んでくれてありがとうございます。
本当に、今でもこの時期になるとおばあちゃんのお話を思い出します。
話してくれたのはその時たった一度だったけれど、忘れたくないです。
椛乃さーーーん(´;ω;`)
私も書いてておばあちゃん思い出して泣いてます。
一緒に泣いてくれてありがとうありがとう・・・!
75年経って大規模な式典で忘れがちだけど、沢山の人の命日なんですよね。
忘れないようにしたいです。
こうやって一緒に共感して泣いてくれる人が居ることに感謝したいです。
思えばおばあちゃん家に遊びに行くと、食べ物は食べきれない位沢山用意してくれていました。お土産も抱えきれない位たくさん。母からも、「とにかく日々のごはんは沢山用意してあった」と言っていました。戦争で食べ物が少なかった時代を生き残ってきたからこそ、子や孫にひもじい思いをさせたくなかったのかもしれません。
繋がった命、繋がったご縁、それはずっとどこかの誰かに続いていく。だからこそ、出会った人には優しくありたい。
おばあちゃんから学んだことです。いまでも大大大好きなおばあちゃん。
私の自慢のおばあちゃんです。