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「できる人」になる条件

社会には「できる人」と表現される人が一定数存在します。物事に対する理解が深く、必要な努力を継続でき、上達の極めて早い人。スポーツでも、勉強でも、お仕事でも、「できる人」はすぐに頭角を表し、優れた成果や発想を生み出していきます。

誰もが「できる人」を目指しながら、なかなか同じようにはなれません。「できる人」は一体どこが違うのでしょうか?

思えば、僕たちは学校での教育でどうやったら「できる人」になれるか、教えられませんでした。学校では、物事に取り組むにあたり「努力は身を結ぶ」という本当か嘘か分からない心構えを与える一方、初学から実践を経て成果達成に至る具体的なステップについては、本人任せなのです。

つまり「できる人」になれるかどうかは成り行き次第です。このため、しばしば「才能」「資質」などという、これまた本当か嘘か分からない概念で「できる人」を形容しがちですね。「できる人」は教育や訓練で形成されるのではなく、「生まれながらにして出来が違う」という諦念にも似た発想が聞こえてきたりもします。

そうした諦念に真っ向から異を唱えるのが、テレビのコメンテーターでおなじみの教育学者、齋藤孝さんです。『「できる人」はどこがちがうのか』では、物事ができるようになるには「普遍的な論理」が存在すると説き、正しいステップを踏めば誰もが「できる人」になり得ることを論じています。

私の考えるところでは、学校の主な役割は、物事ができない状態からできるようになるまでの上達プロセス・論理を普遍的な形で把握させることである。

「できる人」とは生まれつき「いる」のではなく、適切な教育を通して「なる」ものだとすれば、心強い話ですね。

言語化・抽象化・再現性の能力|「できる人」を構成する 3つの力

僕の思う「できる人」に共通する特徴は、現象を言語で的確に表現・定義でき、具体的事象の背後にある仕組みに思いが至り、幅広い領域の知見を自身の解釈で再現できる能力を有しているということです。これを、それぞれ勝手に言語化・抽象化・再現性の能力と呼んでおり、究極のところ何をやらせても通用する普遍的なスキルセットです。

一方、本書では「できる人」の有する力を「コメント・質問力」「段取り力」「まねる・盗む力」の 3つに整理しています。僕はこの 3つがそのまま言語化・抽象化・再現性に対応する概念と捉えました。

全く新しい仕事に取り組むことを想像して下さい。あなたに与えられるのは隣の席の先輩社員と業務のマニュアルだけ。どのようにすれば、ここで「できる人」になれるでしょうか。(そもそも、まず「できる人になりたい」という前提でお願いしますね)

とりあえず何をしましょうか。「どうやって仕事するんですか?」「何をやれば良いですか?」と先輩に聞きますか。あるいは、業務のマニュアルを最初から最後まで読みますか。学校であれば、それで構いません。場当たりな質問もマニュアルの精読も、意欲や努力姿勢、粘り強さの証と好意的に見なされますね。

思うに、こんな間違った評価尺度が学校教育から上達の論理が抜け落ちてしまう病巣ではないでしょうか。

社会では様相が異なります。場当たりの質問をしても「今やること」だけが身に付くだけで、明日にはまた「何をやれば良いですか?」の繰り返しになり進歩はありません。マニュアルを読んだところで、具体的作業が列挙されているだけで、この作業をいつどんなタイミングで行うのかイメージできなければ時間の無駄です。

「できる人」はまず「何を質問すれば仕事が分かるのか」を考えます。それには仕事の要点を知ることが肝要です。周囲の言動を観察し「自分は何が分かっていないのか」を言語化し、それを先輩に投げかけます。これが「コメント・質問力」です。質問をすること自体にさえ、一定の水準が必要ということです。

続いて、自分の仕事が他のどの工程に接続し、最終的な成果にどう繋がるか。その全体像を掴まなければ、ただ作業をこなすだけになります。自身の所掌に留まらず、仕事の社会的な成り立ちや提供する価値を仮説立て、適切なアウトプットを構想し、必要なスキルや周囲のサポートを見積もる。これが「段取り力」です。そのためには仕事そのものではなく、仕事の仕組みを知ることです。

そして何よりも、「できる人」は貪欲に他者から新しい知見や理論、技術の習得を重ね、能力を開発していきます。「まねる・盗む力」です。重要なのは、「まねる・盗む」対象の視野を広く持つこと。全く異なる領域から新鮮な技術的知見を引き込み、自身の考えに混ぜ合わせて再現することで、できることや発想の幅は格段に広がります。

私が思うところでは、新しいように見えるアイデアの多くは、まったく別の領域のコンセプトの記述の転用・アレンジから生まれている。自分の関わっている領域内での思考だけではどうしても行き詰まりが出る。そんなときに、別のより進んだ領域の工夫を盗み、自分の領域の文脈に持ってくるのである。もちろん別領域のものなので、移植にはある程度のアレンジが必要となる。結果としてできたものには、自分なりのアレンジも加わりオリジナリティのあるものとなる。

要約する力|事象ではなく、構造として捉える

こうして概観すると、3つの能力を土台で支えている、ある共通した力が見えてきます。それは、複雑、多量かつ無秩序な物事から真に必要なものだけを抽出する「要約する力」です。

要約の基本は、肝心なものを残し、そのほかは思い切って「捨てる」ことにある。捨てると言っても、まったく無意味にしてしまうことではなく、切り捨てたものが、残されているものに何らかの形で含まれているような関係を保っているのがベストである。

「コメント・質問力」は対象から相応しい言語を選び取る力ですし、「段取り力」は仕事の遂行に必要なリソースを見極める力。「まねる・盗む力」は模倣する技術のポイントを捉える力です。いずれも言語、リソース、ポイントを「要約」しています。

「要約」は「単純化」とは異なり、単に短いセンテンスにまとめれば良いわけではなく、言わば重みづけの技法です。生い茂った雑木林から枝葉を切り捨て、幹となる情報を選択する技術といえます。これは、状況を全体の「事象」として捉えるのではなく、幹・枝・葉という「構造」で捉える力とも言い換えられます。

「できる人」の 3つの力を発現させるには、「要約する力」を教育で体系的に身に付けさせる必要があります。たとえば歴史の授業では平安時代の単元を一気に読んで時代の要点を抽出させる、体育の授業ではサッカーでどんなポジションを取ればボールが回ってきやすいかを考えさせるなど、「要約する力」の学び方には工夫が必要です。

しかし残念ながら、歴史の授業は情報に重みを付けることなく全体的な暗記が強いられますし、体育の授業に構造を捉えるなどという知的論理性は求められません。学校教育は「要約する力」を育む環境ではないようです。

では、「要約する力」はどうすれば身に付くのでしょうか。本書では、並行して10冊以上の本を読むという簡単な方法を提唱しています。あるいは書店に立ち寄った際に、20分程度で10冊の本の内容を把握するでも良いでしょう。こうなると、最初から最後まで一字一句読むなど不可能になります。したがって、いかに短時間で構造を捉えて幹を発見できるか、要約する力のトレーニングになるのです。

本をたくさん読む人が皆「できる人」とは言いませんが、「できる人」に本をたくさん読む人が多いのは、自然と「要約する力」が身に付いたからでしょう。確かに多読の習慣があると、無意識に「全体の 2割を読んで内容の 8割を押さえる」ような行動習性になります。

以前紹介した テキストマイニングは「要約する力」をテクノロジーで再現したものです。では、テクノロジーの発展で人間に「要約する力」が不要になるかと言えばそうではありません。テキストマイニングの示す「重みづけ」から構造を読み解き、意味や法則性を抽出するのは結局は人間の主観です。「要約する」という工程をテクノロジーと人間で分担しているに過ぎません。むしろテクノロジーの発達で、「要約する力」における人間の担当する工程がよりフォーカスされるようになるでしょう。

「できる人」のスタイル|スキルで開かれる発想の可能性

言語化 =「コメント・質問力」、抽象化 =「段取り力」、再現性 =「まねる・盗む力」の 3つの力と、その基となる「要約する力」。こうした能力の習得を通じて「できる人」が誕生します。

面白いのは、通底する基礎能力は同じなのに、「できる人」は意外と誰も似通っていない、それぞれにスタイルを確立していることです。

僕は、スタイルとは「身に着けたスキル」によって定まるものだと捉えています。

たとえば、サッカーの中村俊輔選手は誰にも真似できない魔法のような左足の技巧があります。彼はそのスキルを身に着けたからこそ、左足のキックを最大限生かせるプレースタイルに至りました。ゴールより遠いところに位置し、相手のマークが分散したところに針の穴を通すようなパスを供給することで、違いを生み出しています。

また、中村選手のキックは鋭く曲がる軌道を描きます。このため、彼は目の前に立つ敵の脇をすり抜けて、向こう側の味方選手にボールを渡すことができるのです。

通常、敵が目の前に立てば取られる確率が高いため、ボールを後ろに下げることが定石です。しかし、中村選手だけはボールを下げずに前の味方にボールを運ぶという選択ができます。つまり、スキルがあるからこそ人と違う発想ができるのです。

元来、発想の可能性は無限ではなく、スキルの壁が立ちはだかります。自分にできないことは発想から除外してしまうのが人間なのです。「目の前に敵がいても、ボールを前に出す」というスタイルは、それが可能なスキルを有している者のみ実践することができます。

ただし、中村選手のスキルを知っている監督であれば、チームの戦術に彼のスタイルを組み込むことができます。サッカーのチーム戦術とは、社会でいえば「ビジョン」です。ビジョンを描ける人は、本人がスキルを持たずとも、実現のためにどんなスキルが必要か知っています。「そんなことができるのか」と問われた時に「できる」と即答できなければ、それはビジョンではなく無力な願望です。

「できる人」がスタープレーヤーから優れたビジョナリストになるのはこのためです。彼らは卓越したスキルで自身のスタイルを確立するのと同時に、3つの力を駆使して、理想の実現に必要なスキルをどう調達するか思考することができるのです。

「できる人」への最初の一歩|「あこがれ」の重要性

ところで、本書では吉田兼好の『徒然草』の一節「走りて坂を下る輪の如くに衰え行く」が紹介されています。「目の前のことに没頭して月日を過ごすうちに、いつの間にか歳をとってしまう」という強烈な表現です。

一方で、スタイルの根拠となるスキルの習得には時間が必要なのもまた事実です。「量か質か」ではありません。正しくは「量が質を作る」です。限られた時間で量をこなさなければ、スキルという質は身に付かないのです。

吉田兼好が訴えているのは、「どんなスキルを身に着けたいか」「何にエネルギーを注ぐか」という取捨選択が決定的に重要だということです。「要約する力」は、なによりもまず自分の人生に向けられなければなりません。このような現実を学校では教えてくれないのです。

「本当に必要な力とは何か」という根本的な疑問に真正面から立ち向かう時が来ている。それは仕事の領域でも学校でも同じだ。

「できる人」への最初の一歩は、まず自分は「何ができるようになりたいか」を明確にすること (参考 willの重要性)。端的に言えば「あこがれ」の存在を作り、そこに 3つの力を総動員させ、少しでも近づくことです。「あこがれ」は特定の人でも良いし、様々な人の長所を集約した「良いとこ取り」でも良いでしょう。理想像が明確になることで、何にエネルギーを注ぐかという選択も定まってきます。

もうひとつ、「あこがれ」は具体像なので「自分にもできる」と思わせてくれます。「自分はできるようになる」と確信を持って臨むのと、不安を抱えて臨むのとでは、大きな開きが生じるものです。また、一日の終わりに「今日は『あこがれ』にどれだけ近づいたか」など振り返ると、毎日に張りが出て楽しくなったりします。

身近に「できる人」を見つけたら、まずは素直に「あこがれ」てみましょう。その時、僕たちは「できる人」への最初の一歩を踏み出しているはずです。

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