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「心」を科学してみる

高校生の頃、「生物とは何か?」という、ずいぶん哲学的な問いを投げかける先生がいました。当てられた僕はしばらく考え、「呼吸をするもの」と答えた覚えがあります。

先生からは「呼吸というのは酸素を取り込んで、二酸化炭素を出すということ。焼却炉も同じことをしている。焼却炉は生物かい?」と反証され、僕はぐぬぬ…と引き下がりました。

「生命がある!」
「君が生命を持っているって、どうやって証明するの?」
「うーん…じゃあ、年老いていく!」
「学校というコンクリートの塊だって老朽化するよ」

次々と浮かんでは論破される仮説たち。そんな中、先生が最も手こずったのは「生物には心がある」という仮説でした。

よくよく考えてみると、心という概念はとても不思議です。実感はあるのですが、それが何者かうまく説明できません。さらに、それは生物が固有に持っている機能なのか肯定も否定もできないのです。

そんな仮説に大まじめに対峙したのが『ダンゴムシに心はあるのか 新しい心の科学』です。著者の森山徹さんは大学院を卒業後、電機メーカーに就職し、半導体開発に従事していたのですが、ふとしたきっかけで「心」に興味を持つようになり、再び大学院に戻ったという異色のキャリアを持っています。

ダンゴムシを取り扱ったのは偶然なのですが、その研究はやがて国際学会に認められる論文に仕上がっていきます。しかし当初、森山さんは国際学会で「ダンゴムシに心がある」と発表できる勇気はなかったと述懐します。当初の論文の主旨は「ダンゴムシが原初的に備わっている機能の他に、行動を自律的かつ選択的に発現できる可能性」を論じたものでした。

森山さんに確信を持たせたのは、その学会の場で、場内から「ダンゴムシの行動に自律性を認めるということは、この動物に意思や心を認めることなのではないか」という鋭い質疑があったためです。面白いことに、質疑の主は生物学者ではなく、哲学者だったようです。専門領域の外からの気付きがいかに重要か分かるエピソードですね。

隠れた活動部位としての、心

僕が本書で特に興味深かったのは、ダンゴムシに心があるか否かという実験結果ではありません。実験にあたり、位置づけられた「心はいかにして認識されるのか」という定義です。

僕たちの生活を振り返ると、心というものを実感することが果たしてどれだけあるでしょうか。人間は脳で思考した結果を行動に反映させますが、それと心はどう違うのでしょうか。本書では面白いアプローチから心という存在を浮かび上がらせます。

たとえば何か贈り物をするとき、「心を込めて」という言葉を沿えることがあります。この言葉は、送り主の心が相手には見えないことが前提になっています。見えていれば、わざわざ言葉を沿える必要はありせん。

また、贈り物を相手に渡すときに「お腹が空いたなあ」と思っていたとしても、まさか相手にそれを伝えることなどしませんね。この時、送り主は空腹の発露という行動を発現させないよう、自分に抑制をかけています。

私の内には、それに伴われる行動の発現を抑制することで「隠れて」いる部位が存在しています。「心を込めて」と言う私を目の前にするあなたが、私に心の「気配」を感じるとき、その正体は、この「活動はしているものの、伴われる(意識的、および無意識的)行動の発現を抑制する部位」なのです。

噛み砕いて言うと、隠れているからこそ「心」という概念が立ち上がるということです。心とは、思っていても言えない、したいけどできない、そうした社会的な行動抑制が伴った時に初めて自覚される活動部位なのです。仮に、発言や行動に何の抑制もなく自由に発露することができていれば、自分の心を自覚することができないのです。

面白いのは、心と感情は違うということです。感情とは何らかの事象と対峙した時に、反射的に脳が送る信号ですが、心は感情を抑制し、隠した時に発現されます。

私たちは大人になるにつれ、「顔で笑って心で泣く」場面が増えます。すなわち、感情が生じても、続く行動が無意識的に抑制される場面が増えます。このとき、感情を生じさせる脳部位は活動していても表には出ず、隠れることで、心となります。

さらに、心には内臓や筋肉のように「強い心を鍛える」「やさしい心を育む」などと表現されるように、器官としての概念もあります。言わんとすることは「決めたことをやり抜く」「他者を受け入れる」といったところでしょう。つまるところ、行動を抑制する力ではないでしょうか。

決めたことをやり抜くには、外界から不可避的に与えられる刺激に対し、脳内の様々な部位が活動しても、断固としてそれらに対応する行動を抑制しなければなりません。また、他者を受け入れるには、何よりもまず自分の行動の抑制が伴います。相手の話を聞いたり、様子を見て、脳内の様々な部位が活動しても、助言などの行動を一度はぐっと抑制する力が必要となります。

以上のように、本書では心とは「隠れた活動部位」であると定義しています。普段は特段意識することのなかった言葉を紐解き、深く洞察することで、思いがけない意味が浮かび上がります。

未知の状況に現前する心

本書の主旨はダンゴムシに心があるのか確かめるというものです。では、どうやって確かめられるのでしょうか。心は隠れた活動部位ですから、人間同士であっても実証するのが困難です。心があるのか確かめるには、隠れた場所から現前させる必要があります。

心の働きとは、「状況に応じた行動の発現を支えるために、余計な行動の発言を抑制=潜在させること」です。そしてその働きは、私たち観察者が、観察対象を「未知の状況」に遭遇させ、「予想外の行動」を発現させることで確かめられます。

僕たちが行動を抑制できるのは、大人になるまでに培った教育や経験があるからです。怒られても泣かない、褒められても喜ばない、これらが社会生活を円滑に送るための作法と学んできたからこそ、心に感情と行動を切り離す機能を持たせることができるのです。

しかし、そんな大人でも行動の抑制が解かれることがあります。思いもがけず泣いてしまった、そんな経験はないでしょうか。

私の友人は、ある日、いつも通勤の帰りに通る道で旧友にばったり出会ったとたん、驚くやら嬉しいやらで「久しぶり」と言ったとたん、ボロボロと予想外の涙があふれてしまったそうです。

人間は、経験や学習で積み重ねた既知の状況に対して行動を抑制します。しかし、予想外の思いがけない「未知の状況」では、それがうまくできず、感情抜きで思い当たる原因なく泣いたり、あるいは笑ったりしてしまうことがあります。何が行動の抑制を解いてしまったのでしょうか。

未知の状況において、思いがけず流れた涙。それは、行動の抑制の役割を担っていた心自身が流させた涙だと本書では指摘します。

「未知の状況」で発現される「予想外の行動」は、「内なるわたくし」である心によって自律的に選択され、自発的に発現されます。そのために、旧友に偶然遭遇して大泣きしたときの意識上の気持ちは「わけがわからない」となるのです。

これは「映画館で感極まって流れた涙」とは決定的に異なります。嬉しい、悲しいという感情が高まって泣いたというより、「泣く」という行動の抑制が解かれただけなのです。だから、「わけがわからないけど涙が自動的に出た」という印象が生じるのだといいます。

こうしてみると、小さな子どもの泣く、笑うという行動が理解できるでしょう。大人にとって子どもがなぜ泣くのか、なぜ笑うのか、その理由が皆目見当がつかないことがあります。当然です。理由がないのです。

子どもにとって多くが未知の状況であり、感情ではなく「泣く」という行動の抑制が解かれているだけなのです。泣いているのを見て何が悲しいのだろう、笑っているのを見て何が楽しいのだろうと理由を類推すること自体、的外れだということです。子どもたちは未知の状況に対して、予想外の行動を発現させているだけで、そこに感情という引き金はないのです。

「未知の状況」における「予想外の行動の発現」こそが、隠れた活動部位としての「心の働きの現前」なのです。

日常の「状況→感情→抑制→行動」というプロセスが、未知の状況では「状況→行動」に変わります。心のはたらきは前者では抑制でしたが、後者では行動になるということです。

心の機能を戦略的に引き出す

心には、既知の状況下において感情と行動を抑制分離する機能と、未知の状況下において予想外の行動を発現させる機能の二つがあります。

ここで、未知の状況下における心の機能に着目すると、僕はとても可能性を感じる機能だと思うのです。人間は問題に対峙すると、既知の課題にすり替えて問題解決を図ろうとします。本当は、人生において、社会において、自然界において、未知の問題の方が多いはずなのですが、経験のパターンに当てはめて片付けがちです。もしかすると、それは未知の問題が怖いのではなく、自分自身の「予想外の行動」が怖いのかも知れません。

僕たちには知能という武器があります。心が引き起こした予想外の行動を役立たせようと工夫するのが知能です。

心の科学において、知能とは、「やってしまったことに対してけりを付ける」ことであり、その発言は自然の帰結となるのです。

歴史を見ても、偉大な発見やイノベーションの多くは「行動が先にあって知能で辻褄を合わせる」ことで実現していました。現代の経営やマーケティングの輝かしい成功例も、断片的な行動を後からストーリーづけて説明しているケースがほとんどです。僕は、それこそが心と知能の関係なのだと思います。説明されたストーリーを後追いしても、大した学びになりません。むしろ、部分要素である行動がどう引き起こされたのか、そこに成功のヒントを読み解くべきです。

つまり、予想外の行動を数多く引き出し、それを後から知能で整合性を持たせるという順序こそ、正しいプロセスです。それには予想外の行動を起こすという心の機能を戦略的に引き出すことが鍵となります。

それはまさに、ダンゴムシの心を戦略的に引き出す実験プロセスそのものです。本書ではそれを「待つ科学」と呼んでいます。未知の状況を作り出し、相手の心が予想外の行動を起動するのを「待つ」ということです。

ただ、それは「待ちぼうけ」ではなく、相手の意外な一面を引き出すために、こちらから少し働きかけて、そして待つという態度です。
相手に潜む見えない能力、すなわち「心による、余計な行動の抑制=潜在化」は、「働きかけて、待つ」ことで明らかになります。

多くの企業が社員の「創造性」「革新性」などを引き出そうと、先進事例やフレームワーク、思考プロセスから理論に至るまで、山のような情報を与えています。しかし、鍵となるのは予想外の行動を引き出す心の現前ですから、与えるのは未知の状況だけに留め、あとは待つというスタンスこそ重要だと認識させられます。

ダンゴムシの心を探るため、与えられた未知の状況とは何か。果たしてダンゴムシに心はあるのか。そして、それはどのような心だったのか。

その答えは、ぜひ本書を手に取って確かめてみてください。

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