ノイズって美しくない?

(12月のさっきょく塾エッセイ課題)

まず、音楽のために用意され使われる音=「音楽音」という造語を作り、それをを基準に考えてみたいと思う。
(楽音=周期的なピッチを持った音、から考えるのではなく。)
その上でノイズを「非音楽音」として考えるとすると、地下のライブハウスのノイジシャン(ノイズミュージシャン)のノイズは実のところ彼/彼女らにとっては音楽音で、「旧世代の人にはノイズだろうけどね」みたいな皮肉?(=聴衆にとっては非音楽音だろうと想像する)のもとに「ノイズ」を自称しているのではないか?
ということは、音楽で使われる「ノイズ」のほとんどは「新しい音楽音」のことなのではないだろうか。
(「新しい音楽音(としてのノイズ)」は人間が音楽をつくり始めてこの方、常に開拓し続けられてきたし、その重要性は言うまでもないが、ここでは割愛する)

ではノイズが「非音楽音」のままで使われることは無いだろうか。効果音として、なら考え得るけれど「役目を持つ」と考えるとそれも「そういう楽器の音」=音楽音になってしまう。というか、どんな音も意図を持って使った途端に作り手にとっては音楽音になってしまう。ということは聴衆にとってしかノイズは成立しない?
(でもクラシックを聴いて、作曲家や演奏家の意図がわからないことがすなわちこの音楽はノイズの音楽だ、とはならない。意図の有無は印象とは関係ない。聴衆にとっては音楽の場で聴いた事のない音=非音楽音、と感じるはず。)
ともあれ、「作り手の意図を離れたもの」をノイズと呼んでみることにすると、そういえば、情報理論(のシャノンモデル)でのノイズの意味は、送信された信号と受信された信号との差異(要するに不純物)だったことが思い出される。
ここでノイジシャン達をもう一度見てみると、モジュラーシンセを山ほど繋いでいて、自分でも何がどうなっているのかよくわからないようだ、と気がついた。やはり彼らは自分の意図を超えたエラーを求めていた。(と、したら)そのような形で「ノイズ」の「ミュージック」がありえるように思われる。
(結局この話はケージの「音をあるがままにしておく」みたいなことに、、?
しかし「意図をしないことを目論む」というのはなんというか作曲家というか人間の業みたいなものにも思われますね。。)

そのうえで、「ノイズって美しくない?」かどうか「ノイズ=作り手の意図を離れたもの」として考えてみると、それが普通の意味で美しいかそうでないか、は「場合による」(つまり答えになっていない)。
が、例えばサイコロを延々と降り続けてしまうのにはそれにある種の魅力を感じるからだ。(ランダムで餌が出たり出なかったりするボタンをネズミが押し続けてしまうように。あるいは「ソシャゲ」のガチャを引き続けてしまうように。)そのような意味で「ノイズは美しい」。

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