レビュー:不健康は悪なのか 健康をモラル化する社会 みすず書房
先日こんな本を読みました。
私たち難病当事者は病気をある種当たり前のものとして生活していますが、それ以外の文脈で語られる「健康」は、盲目的に信奉され、誰もが目指すべきものになっています。SNSを見ても、テレビを見ても、「健康になるために」食べるべきもの、するべきこと、などがあふれています。
著者曰く「健康」は価値判断、ヒエラルキー、盲目的想定(p4)に満ち溢れた用語であり、健康を目的に何かが言われたり、方向付けられる時、必ずその裏で道徳的なジャッジが働くとのこと。
この本は、そんな「健康」の在り方を再考する論考集です。アメリカの話をベースに書いてありますが、私たちの日本にも当てはまることも多々。
目次はみすず書房さんのサイトに掲載されているのでぜひご覧ください。下記の通り色々な論考が載っているのですが、
障害研究者による、「正しく健康なセックス」への批判、自身もがん当事者である人類学者による、がん「サバイバー」に社会的・道徳的に求められるポジティブなサバイバーシップについての批判、障害学の観点から語る「苦痛の名の下に」が特に興味深かったです。
それぞれ、少しでも健康について批判的に考えたことがある方なら、精神障害が増えていることへの違和感や、日々の労働の中ですり減っている肉体・精神の中である種の解放としての食事、その結果としての肥満について思うところがあるでしょうし、特に母乳の無理な押し付けなんて育児している女性は皆感じるところですし、製薬会社のプロモーションや、公的な資源であるべき医療・薬に不当に市場原理が持ち込まれていることへの懸念も抱いたことがあるでしょう。
それが言語化され、収集されている作品としてとても完成度が高く、これを読み終わったあとは、街中の雑誌やウェブの記事、テレビや病院などで目にする「健康」に、それが意図するところは何か、どんな道徳的判断、公衆衛生学的行動、イデオロギーが背景にあるのか、考えることになるでしょう。
また、アセクシュアルについて述べた論考では、アセクシュアルの人々が、「わたしたちは不健康ではない、精神障害でもない」と述べることで、健康かそうでないかの二元論からは脱却できていないし、むしろ障害のある人への偏見を助長する危険があるといいます。今のアメリカでは、アセクシュアルが病理的な枠組みの中に置かれているためにそうしたことになると述べられています。
これ、身体的な疾患でも言いがちなんですよね。
「〇〇病は精神障害ではない」という主張は、言い方に気を付けないと、精神障害当事者の偏見を助長します。正しい疾患の周知や理解が必要だということ、身体的疾患を精神疾患と誤診してはいけないということと、どういう文脈で「精神疾患ではない」というかは別個で考えないといけません。
「正常な」体というイメージからわたしたちは自由になる必要がありますが、それは「健康」でさまざまなものが意図される今、なかなか難しいことなのかもしれません。この論考では、それに対するひとつの解決策の考え方も提示されています。
最後の苦痛に関する論考は、自分としては一番読み進めにくいというか、テリ・シャイボ事件や、アシュリー事件、フランスの風疹による障害をもって生まれた子供に関する裁判(ニコラス・ペルシュ)など、優生思想は過去のものではなく、人類が根源的に抱え続けるものだと改めて思わされました。
アシュリー事件を簡単に解説すると、障害を持って生まれてきたアシュリー、歩くことも話すこともできない、認知的にも障害を抱えていたため、両親がアシュリーが6歳の時に乳房芽と子宮を除去、成長ホルモンを調整し、ずっと子供の状態に止まらせることにしたという医学的・優生学的思想に基づいた事件です。
成長しないことで生理痛から自由になるし、何より親がケアしやすい(移動させやすい)、避けることのできる苦しみを取り除けるという、苦痛の名の下に行われる残虐な行為です。
あまりにも苦痛というものが悪だということが当たり前のこととして受け入れられているため、苦痛のある人生は間違った生(つまり死ぬべき)という考えにも容易に至ります。
見たくないし聞きたくもない内容ですが、これがつい16年前の話であり、今日もこうしたことが続いていると自覚するのは、社会を構成する一員として非常に重要なことだと思います。
今回紹介したのはほんの一部ですので、ぜひ「健康」に少しでも関心のある方は手にとってみることをお勧めします。普通に買うと高いしメルカリにもないのですが笑、図書館には置いてあるかもしれないです。