風呂は偉大
お風呂の湯舟につかりながら、少し考え事をしてた。
お風呂の湯舟? お風呂? 湯舟? まぁいいか。
なんか、ちょっと色々と考えてた。
お風呂に入る前に自分が書いていた古い文章を軽く読み漁っていて、そっかぁ…って思わされた部分が結構あって、まぁ、とりあえず風呂入って飯食って酒でも飲む時間だなって感じで切り上げた。
なんだろう。
上手く言えないけど、ちゃんと自分を客観視した方が良いんだろうなぁ…という気はしている。
お風呂って気持ち良い。
お風呂って凄いと思ってる。
俺は結構マジでお風呂推しで生きてる。
なんだろ。別に全人類がお風呂に入るべき!
って活動しようと思ってるわけじゃないけど、お風呂って良い物だと思ってる。
もちろん、これを達成するためには水も熱も、それを入れる桶?船?もいるし、服を脱いでも安全な状態とか、ありとあらゆるものが揃って、これがあるわけなんだけども。
これを全人類が享受できるほど世の中が良いものじゃないってことは、一応理解しているつもりだし、それそのもののコストがとんでもないことは、一応理解してる。
理解しながら、こうやって怠惰に生きている。
話したいことは、そんなになくて、でも、こうして向き合った時に、小さくやりたいこととか、やるべきことみたいなものには出会う。
必要なこと。やらなければいけないこと。それは誰かに定義されるものじゃなくて、出来るだけ許される限りは、私が私としてあるために使いたい。
私が誰に尽くしたいのか。
私が誰の為に行いたいのか。
私が何の為に、私が私が私が私が。
どこまでも、追求すべき存在は私自身である愚かさを、私自身が今はどこまでも肯定する覚悟がある。
この覚悟が無い限り、私は私で生きることが出来ない。
風呂で仕事をしてたときのことを考えた。
仕事は俺は楽しかったし、俺は仕事が好きだったし、仕事をすべきだと思うし、仕事は尊いと思っている。
ただ、会社員をしながら必ずしも正しい仕事が出来るわけでは無いことは当然知るべきだし、その正しさは自分の価値観に依存してしまうし、どこまでも会社や社会、人間の集団ってものは、環境側であることを理解すべきだ。
それを受け入れて社会人になったけど、まぁ、自分を社会人って呼ぶの、会社員のときは恥ずかしかったな。
多分、ほとんど自分を社会人って表現したことないと思う。
なんだろう。そういうことじゃないって当時は思ってたけど、今思うと、ちゃんと社会人してたし、し過ぎてた気はする。
じゃあ、今の自分はどうだって言うと、俺は社会人してると思う。
でも未来の自分はきっと今の自分を社会人じゃないだろって言っててもおかしくないと思う。
俺は俺に対して、ちょっと疑問を持ち始めている。
でも、なんだろう。この疑問の中でしか存在しない自分ってのも好きで、きっとこれを書いてる俺は、ここでしか生きられない存在な気がする。
あんまり、いつでも堂々と出来るわけじゃない。
モラトリアム。アパシー。充電期間。
どんな風に世の中が移り変わっていくかなんて知らないし、私がどうなるかなんて分からない。
それでも、今この瞬間、私が正しいと思っている自分を演じている幸せを感じる矛盾。
私は私を肯定している。
私はきっと私を否定しなければいけない。
部分的に。正しくあるために。
こうやって、ちゃんと向き合っていくべきなんだよな。きっと。
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