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やっしい爪切りで爪うにうになるのもう嫌じゃの歌
やっしい爪切りで爪うにうになるのもう嫌じゃの歌
やっしい 爪切りで
うにうになるのは嫌なんじゃ
やっしい 爪切りで
うにうになるのは
もう嫌じゃ~(適当にユニゾン)
残念ながらこの記事の内容は十割ここで完結しています。
だらだらと語る者の文章が見たくない人は帰ってください。
おはようございます。おやすみなさいの人はおやすみなさい。
天丼男です。
生活レベル、という言葉があります。生活のこまごまとした有機物や無機物の平均価格を上げたり下げたりする。それによって変動する数値と、ハーモネモネエ・ウワッサ国の首都、マコトシヤッカでは囁かれています。
将来に向けての人生設計の中で、この生活レベルは相応に重要な概念だと思われます。
なぜならば、生活レベルは一旦上げればもう御仕舞、二度と下げることは叶わぬといった代物であるからです。エドモンド本田でもおそらく無理でしょう。私から今よりも安いまわし(ガッサガサ)をまわしてくださいと言われれば、エドモンド本田は躊躇なく私を投げ飛ばすことでしょう。その方が手っ取り早いからです。それほどまでに、生活レベルとは下げがたいものなのです。
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私は、この生活レベルをできるだけ上げないようにしたいのです。老子から言葉を借りれば、「足るを知る」。いたずらに購買意欲を煽りまくる中身のないアドバルーンまみれのこの資本主義社会の流れに、逆張りオタクとして巷を騒がす私としてはやはり逆らいたい。そもそも現代日本には安価でそれなりの品質のものが溢れかえっています。そのやっすい鳥籠の中に自らを閉じ込めても、日々の生活になんら不自由はしないのではないでしょうか。
しかしながら、そう簡単にはいきません。私にも譲れないものがあります。そう、爪切りです。
以前、我が実家にやっすいやっすい爪切りしかなかったときを思い出します。あの時の私の生活はカス同然でした。それもこれも全てやっすいやっすい爪切りのせいです。爪切りにどれだけ力を入れても、爪に薄い切り口が入るばかりで、切れることはない。しかも爪切りという道具は、利き手じゃない手に持って使う道具です。制御の効かない、力も入らない、まるでいいとこなしのじゃじゃ馬のような私の左手では、爪どころかプレパラートの上に乗っかったうっすいうっすいカバーガラスすらも切れません。エドモンド本田でもおそらく無理です。私からやっしいやっしい爪切りで爪を切ってくださいと言われれば、エドモンド本田は躊躇なくやっしい爪切りごと私を投げ飛ばすことでしょう。その方が手っ取り早いからです。それほどまでに、やっしい爪切りで爪を切ることは、耐え難いものなのです。
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そんな私も今では良い爪切り(ファビュラス)を用いて優雅に爪を切っています。新しい爪切りを買って、金はひとりでに増えたりはしないものの、爪切りへのモチベーションが段違いになりました。皆さん、どの生活レベルよりも、爪切りのレベルを上げましょう。今すぐに。少しだけでいいのです。いつもよりもう何千円か出せば、向こう十年のあなたの爪切りはきっと安泰でごわす。そうエドモンド本田も言うでしょう。
力と 高い爪切りだけが 正義で ごわす。
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やっしい 爪切りで
うにうになるのは嫌なんじゃ
やっしい 爪切りで
うにうになるのは
もう嫌じゃ~(適当にユニゾン)
でも 高い爪切り ありがとう
高い爪切り 流石でごわす
高い爪切り チョベリグね
高い爪切り ありがとう~(適当にユニゾン)