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小休止ー花は盛りに?ー
花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。
ー桜の花は満開のときに、月はかげりのない満月のときにだけ見るものか、いや、そうではない。
有名な『徒然草』の一節だ。高校時代の国語の授業で習ったきり、なんとなく心にしまったままになっているが、時々引き出しを開けて取り出すことがある。
冬になって木々の葉が落ち、すっかり枯木立になっている。春や夏にはどんな花が咲いていたか。どんなかたちの葉がついていたか、さっぱり思い出せない。
行きつけの接骨院に行くには、住宅街の中の細い道を車で走る。ゆっくりと走るので家々の垣根や庭先に咲く花がよく見える。桜の木に囲まれた小さな幼稚園。こんなところに紫陽花が咲くんだ。あの家の垣根から覗いている白い花は、なんていう名前なんだろう。花が咲いている時期にはよく見ているけれど、花が咲き終わり葉ばかりになると、まったく目に入らなくなる。花が咲いていた木はそこにあるのに、私にとってはないもののようになってしまう。
秋になって葉が色づく。家の近くの銀杏の木が真っ黄色になる。でも、その木が色づく前のほかの季節に、その木がどんな姿をしていたのか思い出せない。私にとっては、秋になって急にそこに銀杏の木が立ち現れたように感じるのだ。毎年毎年、色づいて、枯れたあともそこにいたのに。
花の季節だけ、紅葉の季節だけ、きれいだ、美しい、と眺めるのは、そのものの存在にとって失礼なのではないだろうか、と思ってしまう。ずっとここにいたでしょ、と怒られてしまうような。花が終わって葉ばかりの姿にも美しさはあるだろうし、枯木立にも趣きはあるはずだ。美しさも、趣きもなかったとしても、そこにあることには変わりがない。
月にも、同じようなことを思う。
夕方の空に三日月を見つける。金星と隣りあったり、そっぽを向きあったりしながら、まだ明るさの残る空に浮かぶ姿がかわいらしくて好きだ。そのあとだんだん太く、丸くなって満月になる。空の低いところに赤黒く大きな満月が「のっ」と浮かぶ姿はちょっと怖くてどきりとするけれど、天頂でこうこうと輝く姿はやはり美しいと思う。
不思議なのだけれど、満月を過ぎたあとの月って、なぜだか姿を見かけなくなる。急に出る時間が遅くなるのだろうか。「満月だ、きれいだね」と言った後の月の姿がさっぱり思い出せなくなる。見ていないのだから当然なのかもしれないけれど。
私の目には映らないところで、満月の後も月はのぼり、夜空の決められた道を通って、また帰っていく。夜、布団の中で目をつむる時、私は見てはいないけれど、そこにあるはずの月を想うことを忘れないようにしたいと思う。
『徒然草』では、恋愛についても書いている。「契りを結ぶことなく今は離れてしまった人のことを、懐かしく想うことも趣きがあって、恋愛って感じだよね」というようなことを言っている(たぶん)。
私には恋愛経験が乏しいので、このあたりはよくわからない。懐かしく想い出すような人がいないのだ。花や月と同じように考えたほうがわかる気がする。
私の前ではいつも穏やかで優しいあなた。おすすめの本をさりげなく教えてくれたりする。人を傷つけない言葉選びがとても上手。
そんなあなたでも、腹に据えかねて声を荒げてしまったり、予期せぬことに思わず舌打ちしてしまうこともあるだろう。
知人と楽しく飲んだ帰りの電車で、運よく座れてほっとしてスマホを見たとたん、無になってしまうあなた。優しい言葉も読んだ本の知識も抜け落ちて、ただそこにあるだけになってしまう。
優しくなくても、無になってそこにあるだけになっても、あなたがあなたであることには変わりはない。ただそこにいるだけのあなたも好きでいたい、と私は思うし、むしろ私の前でただそこいるだけになってほしいとも思う。「穏やか」とか「優しい」とか、あなたを形容するものをなくしても、その存在を愛しいと思いたいと願っている。
枯木立に心の中で声をかける。「今のあなたも見ているよ」
眠りに落ちながら月の光に耳を澄ます。「そこにいるんだね」
電車の中のあなたをそっとてのひらで包む。「いてくれて、ありがとう」