習作「今日子さんの話ー夜露ー」
大学に提出するレポートを作っていた。考えはある程度まとまっているのだが、うまく文章にすることができない。グラフにしてみたり図表にしてみたりしたが、考えの周辺をぐるぐる周っているだけで、核心には触れられていないような気がした。今度は円グラフにしてみようかと円を描きだしたところで、シャープペンシルの芯がぼきりと折れた。それと同時に集中力も切れてしまった。
頭を掻きながら時計を見ると、21時になるところだった。細く開けた窓から湿り気を帯びた夜の空気が忍び込んでくる。夕方は曇り空で、雨でも降るかと思ったが、まだ大丈夫なようだ。雨の音はしない。「明日のパンがなかったな。」イスから立ち上がって玄関に向かう。部屋を振り返って少し迷ったが、窓は開けておくことにした。
マンションのエントランスに降りると「にゃーん」と猫の鳴き声がした。足元を見てもなにもいない。もう一度「にゃーん」と聞こえて慎重にあたりを伺うと、道の向かい側の塀の上に猫がいた。目が合うか合わないかのうちに塀の向こう側へひらりと消えてしまった。
コンビニでウインナーの挟まった細長いパンと、眠気に勝つ系の栄養ドリンクを選ぶ。ふと思いついて棚を探すと、やはり猫用の缶詰が売っていた。「なんでも売ってるんだな。」見るだけにして買わなかった。
コンビニを出て、そのまま帰ろうとしたが、足がなんとなく公園へ向かう。パソコンのディスプレイや手書きの円グラフがこんがらがった部屋に戻ることを、体が拒否している。夜の公園に行ってもなににもならないことはわかっているけれど。
もうすぐ公園、というところの花壇のあたりに白っぽい人影が見えた。こんな時間に、と一瞬身構えて、自分も「こんな時間に」の仲間なことに気がつく。怪しく見えないように、なにげない足取りになるように注意しながら近づき、その人影が街燈の下に入ったところで、ふっと肩の力が抜けた。今日子さんだった。今日子さんは同じマンションの住人で、ゴミ捨て場や郵便受けなどマンション内でよく顔を合わすうち、なんとなく話すようになった。大学生の僕よりはたぶん年上なのだろうと思うが、女の人の年齢の判断方法がよくわからない。少なくともおばさんやおばあさんではないように見える。
「あ、こんばんは」
声をかけようか迷っていたら、むこうから声をかけてきた。
「こんばんは。なにしてるんですか、こんなところで」
うん、と頷きながらあたりをきょろきょろと見まわしている。
「だいごろうを探してるんだけど」
「・・・だれを?」
「だいごろう。猫なの」
猫にしてはずいぶんとたいそうな名前をもらっている。
「猫ですか。どんな猫ですか?」
「そうだね、猫の柄っていろいろあるでしょう?なんとかトラとかって。」
「キジトラとかサバトラのことですか?」
「そう。なにトラなのかはわからないんだけど、灰色っぽいシマシマの猫」
「その猫ならマンションの近くで見たかもしれません。」
「本当?」
「うーん、でも一瞬だったし。もう20分くらい前のことだから」
そう、とうつむく。猫に何の用事だろうか。餌でもあげるんだろうか。
「今日子さんの猫なんですか?」
「ちがうよ。たまに挨拶するだけ。今日はどうしても顔が見たくなって」
言いながら、今日子さんは公園の中に入っていく。暗いので、スマホのライトをつけようとポケットをまさぐって、部屋に置いてきたことに気づく。
「よくあそこの木の下で寝ているんだけど。さすがに夜はいないかなぁ。」
芝生広場、と立札のあるスペースを指さされて、目を凝らす。
芝生広場は小学校の校庭よりは少し狭いくらいの広さで、中心に向かって少しずつ隆起し、丘のようになっている。その中央に確かに木が生えているのが見えた。猫がいるかまでは見えなかった。
「ここからだと見えないですね。」
あまり手入れがされていないのか、芝が伸び放題になっていた。芝以外にも猫じゃらしや名前のよくわからないイネ科っぽい草もところどころ生えている。どの草も、なぜかぐっしょりと濡れていた。雨はまだ降っていないはずだ。地面をスニーカーで軽くこする。湿り気は感じない。
「私、見てくるね」
「あ、待って」
芝生広場に一歩踏み入れかけた今日子さんを思わず止めた。今日子さんの、足の甲がむき出しのぺらぺらした靴ではさぞかし足が濡れるだろう。
「草が濡れているから。」
「どうして濡れているの?」
「たぶん夜露なんだと思いますよ。」
「よつゆ?」
そんな言葉は初めて聞いた、とでも言うように、今日子さんは不思議そうな顔をする。僕も言葉や存在を知っていても、見たのは初めてかもしれない。
「草から出る露なの?」
「うーん、たしか空気中の水蒸気とかそんなのだったような」
スマホがあればさっと調べるところだが、あいにく今は手元にない。
「足が濡れるから。おんぶでもしますか?」
と冗談半分で背中を向けると
「そうね」
と飛び乗ってきたので驚いた。受け止める体制ができていなくて、よろめいてしまった。
「大丈夫?」
「大丈夫」
よいしょっと背負い直して、芝生広場に踏みいった。一歩進むごとに小さなコオロギやバッタがちらちらと飛び出してくる。ああ、今は秋なんだ。毎日カレンダーは見ていたけれど、レポートの締切の日にちを数えるだけで、季節として認識していなかった。秋と認識した途端に、リーリーと虫の声まで届いてきた。
「秋なんですね。」
背中の今日子さんは黙っている。背中にぴたりと張りつくように乗っているのに、なぜか密着感がなかった。最初に感じていた重みも、進むごとになくなっていく。おんぶの姿勢をとっているのに、おんぶをしている実感がなかった。
「生きてますか?」
ふと不安になって問いかける。
「生きてると思うよ。」
だいごろうのことを聞かれていると思っているかもしれない。問いかけには答えてくれたので、それでもいいと思った。
木の下に着いたが、やはり暗くてよく見えない。
「いそうですか?」
「だいごろーう。おいでー」
「だいごろう」
ふたりで呼んでみる。
にゃーん、と返事を期待しているので、すました耳ににゃーんと聞こえるような気がする。でも、実際には聞こえていない。幻のにゃーんが耳から離れず、虫の声と重なって聞こえる。
「いないね」
「いないですね」
「戻りましょうか」
「そうね」
帰りは少し下り坂になっているので、滑らないように慎重に歩いた。
芝生広場の外にたどり着き、今日子さんを降ろす。
「ありがとう」
もう少し探してから帰る、と言うので公園の入り口で別れた。
別れ際に、今日子さんは花をくれた。
「おんぶのお礼」と言って、公園の自動販売機の近くに咲いていた小さな花を摘んで手渡してくれた。
部屋に戻って、コンビニで買った栄養ドリンクを一気飲みする。瓶を洗って、今日子さんにもらった花を挿した。もらった時は暗くてよくわからなかったが、よく見ると薄紫色の小さな花が茎に寄り添うようにいくつかついている。鼻を近づけるときゅうりみたいなにおいがした。
「さて」
カチカチとシャープペンシルの芯を出す。グラフや図表に頼らず、やはり文章で表現してみよう。スマホの辞書アプリを起動する。
開けたままの窓から、「にゃーん」と猫の鳴き声と、「だいごろう」と呼びかける今日子さんの声が聞こえた。