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03.《エアー・チェック》#01 Cinema at Sea - 沖縄環太平洋国際映画祭
韻文で制作されたカルチャー情報をラップで放送する『レディオ・花見川』の新コーナー、《エアーチェック》が始動します。
初回は、「Cinema at Sea - 沖縄環太平洋国際映画祭」の紹介です。
03.《エアー・チェック》#01
Cinema at Sea - 沖縄環太平洋国際映画祭
Beats by ヘントナー大佐
[Intro]
お聴きのチャンネルはレディオ・花見川
それは鉢叩きに導かれしサガ
夏の日 琉球葦五位が訪れる
印旛沼某所からの放送です
[Verse]
という事でね 時間です 《エアーチェック》の
必聴な新コーナーのはじまりですよ
わたしはキーチの分身 ソライです
このコーナーの担当パーソナリティです
お聴きの諸君 調子はどうね?
OK? じゃあまず説明しましょうね
もうはじまってる《エアーチェック》について
このコーナーは全編押韻で
本 音楽 イベントなどを紹介してく
不定期放送のカルチャー・ギャラリーです
お聴きの間 首がふれるように
フレッシュでブリリアントなビートを使用し
古風なフロウで 飄然と力まず
カルチャー情報ってものをライムしていきます
ひやかしでも別に構わないんで
リラックスして自由に聴いて下さいね
それでは説明も終わたんで早速
情報の紹介を やっていきましょう
今回はCinema at Seaという映画祭
それの紹介です 聴いて下さい
監督の黄インイクが立案した
沖縄開催のこの映画祭は
万国之津梁という在り方を
今現在も継承している沖縄と
文化的類似性のある台湾
その周辺に点在する島々
それらを「環太平洋地区」という場として
新たな枠組みで捉え直して
この地区の持つ価値観や視点と
伝統に根ざした独自の表現を
映画によって世界へ提言すべく
立ち上げられたフィルム・フェスティバルです
優れた映画の発掘・発信をコアに
多種多様なイベントを行い
地元のビジネスを支援しつつ
参加者が対話で互いを理解する
国際交流の場を作り出し
沖縄を「海の上の交差点」にしたい
というヴィジョンでもって運営されてる
海で繋がるシネマの祭典です
今回の開催は第二回目
2月22日からのはじまりで
厳選な審査を経て用意されたのは
島嶼文化の潜在性をまとった
四九本の上映ラインナップ
最終日は3月2日となっています
開催場所は桜坂劇場と
ぶんかテンブス館テンブスホールと
県立美術館・博物館です
観客に目覚めの衝撃を与える
映画でしか出来ない事に挑んだ
インディペンデント映画を観たい人は
尚玄がアンバサダーとして動いてる
この映画祭に是非行って欲しいです
以上 《エアーチェック》の記念すべき初回は
Cinema at Seaを紹介しました
ではこのコーナーを締めるにあたり
この曲を紹介させて下さい
藤原カムイが立ち上げたレーベル
SHISA SOUND WAVEから出てる
Cinema at Seaの理事で映画監督
東盛と彩が作った楽曲
ドゥナンムヌイ ウチナーグチ ヤマトゥグチを使い
紡がれた歌 『ユル ヌ ウマチー』
Youtube のリンク 貼っておきますからね
聴いてみてください というわけで
わたくしソライが担当する《エアーチェック》
第一回目は これにて時間です
《補遺》
参考文献:
・『アメリカと合衆国の間』中上健次×石川好 (1987)
「中上 僕がいま『群像』に連載している小説は「異族」というんだけれど、その中で、南東連邦
共和国というのがあるんです。台湾と沖縄とフィリピンとか、そういうところと連合政府をつくる
という話なんですけど、センターは与那国と石垣島にあるんですよ。香港だって中国に返還される
というのに、なんで沖縄はセンターになっていかないんだろうか。沖縄はそれこそマイアミみたい
なかたちになってきてもいいと思うんだけどね。
(中略)
与那国なんて、台湾と六○キロでしょ。あそこの難点は、風の問題で飛行機がうまく着かない、そういう地理的条件はあるんだけれどね。だけど、あのあたり、完全にゾーンになるね。すぐだもん。あそこを拠点にすると、韓国はすぐだし、台湾もすぐだし、フィリピンもすぐだ。ぼくがもし革命政府をつくったら、あそこに首都を置くよ(笑)。それこそマキラドーラという首都をあそこに置く。で、革命連合政府をつくってさ、台湾と韓国とフィリピンと日本とで、それをつくるね」
・「中上健次の雄図」大城立裕 (新潮,1994-01)
「中上健次が『奇蹟』以降の作品を贈ってくるようになった。酒場の止まり木で二度隣りあわせただけにしては、丁寧すぎることだと思ったが、ちょうど『異族』を書きはじめたころだと知って、私へというより、沖縄へのラブコールなのだと、合点がいった。その沖縄への全力投球をしないうちに死んだのだ、という感慨が私にはある。
(中略)
路地と同様な差別世界として、韓国や沖縄やアジア諸国の人たちを糾合して、あたらしいパワーの世界を作ることをこころみたのが、『異族』だとされているが、これを大東亜共栄圏構想に見立ててしまうことは、中上にとって歯舞いような偏見ではないか。彼はそこに、政治をこえて新しい文化像をまさぐっていたはずなのである。めざすは、装いあらたな東京像、そして日本像であったに違いない。
今日の深層文化は東京にはないと信じこまれているが(だからこそ、路地にそれを物語のかたちで見ようとしたのだが)、そんなことはないはずである。そのことを中上は証明しようとしたと思われる。そのための試行錯誤が、『日輪の翼』で予見され、『讃歌』や『軽蔑』で実行されたが、それをひとつの布石としておいて、別の切り口をこころみたのが、『異族』であったのだろう。それは、いずれ東京と路地を「日本」または「アジア」という枠組みでかこいこむ志に立っていた、
とみられる。
ただ、異族の深層は、やはり見えにくい。
(中略)
中上が路地に代わる周縁文化を沖縄に見ようとしたことは、考えられるが、ここでいまひとつ考察の射程に入れたいのは、周縁の論理が異なるということである。路地は中世の負の所産であるが、沖縄は中世をもたなかった。天皇制の影響もなかった。この点で、アジア諸国とのあいだに共通項をもち得るのである。
沖縄ないし韓国、あるいは中国その他のアジアを、路地的パワーの復活に賭けてつなぐことは、単純な差別構造ではたぶん無理である。さらに深い想像力をもってすれば、文化のごく深層の構造を探り得て、あるいは可能かも知れない。
そこには、天皇制以前の、ひょっとしたら縄文文化の残像を掘り出すことも不可能ではあるまい。そこにこそ、『異族』の「八犬士の青い痣」の意味があるだろう。大東亜共栄圏だの右翼だのと言っていては、せっかくの雄図を阻み、読者の眼を曇らせることになる。かつて誰も試み、あるいは志したことのないコースであるだけに、中上の前途の困難は想像できる。柳田國男や折口信夫にたいする中上のなみなみならぬ傾倒の意味を、そこまで掘り下げるべきだろう。
フォークナーやガルシア・マルケスとの共通項はそのとき超えられて、日本文化の深層が、独自に掘りだしたあたらしい神話の顔をもってあらわれることになる。
中上は、そのコースを一つずことなしていたのであって、そのゆえにこそ、たとえば四幕ドラマが第三幕の中途で中断したような、その死が惜しまれて然るべきだと思う」