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「空」というのは、動的なものである

近頃、「ノン・デュアリティ(非二元)」という言葉が、スピリチュアル業界では流行っているらしい。
 
基本は、「私」の不在と全体だけがある、世界の働きだけがある、という事実を提示するもので、「世界の働きだけ」ということがわかれば、ただ起こっているだけであり、「私」に何もできないのだから悩んだり葛藤したりする必要もないし、何の問題もないことがわかる、といった傾向の現代風に衣替えをした悟り論といったところだろうか。
 
「ノンデュアリティ」という言葉が仏教や禅の悟りと同じかどうかという議論はさておくとして、そういった流れそのものは別段、「私」という自我の葛藤の世界に疲れた人々にとっては癒やしになり、救いにも見えるだろうし、自我が刺激されつづける資本主義経済社会においては、アンチテーゼの価値にもなりうる可能性を秘めたものだろう。
 
ぼく自身は、「世界」という感覚のみになったところで、世界が救われていないのなら、個我を超えた感覚でもって、それぞれに既存の価値を超えんとするまったく新たな生き方、新たな表現、新たな創造的行為をしてゆくのがこれからの人間の責務だと思うわけだが、まぁ、こういうのは流行らないらしい。
 
つまり、「世界」感覚になればゴールでノープロブレム、何を騒いでいるんだい?という今風スピリチュアルの人々と、「世界」感覚になった時に世界の端で見捨てられ、省みられずに苦しんでいる人々の姿をはじめて自分や、すべての事物と同じ価値ある存在として認識し、その悲しみ、苦しみに共感して、慈悲を覚え、そうした人々のために何かをするのがこれからの人類だ、というオーソドックスな宗教者タイプとなら、自分は明らかに後者である、というだけの話だ。
 
これは何も好みや、主観的な話ではなく、自分の身にその通りのこと(自我の破壊・解体と身心脱落体験)が起きたので、致し方ないというところもある(自分の俗世におけるキャラクターとは関係がない)。自我が落ちて世界になればハッピーというのは「私」という観点からすれば一理あるが(自我が落ちた末のものではなく、知的理解や、観念との同一に留まっている人がほとんどのように見えるが)、その先には慈悲と創造の責務の道があると思う。
 
もちろん、すべての人にそうした生き方を強調するわけにもいかない。それぞれがそれぞれの器、個性に合わせてある感覚を選び取る。そして、別段、それについてぼくのような業界の端の方にいる人間が何か言うこともない。
 
一つだけ気になるのは、今の悟り系の情報が、「世界だけが在る」とか、「今ここ」「プレゼンス」とかいう空間的、及び時間的なノープロブレムの一点にフォーカスしすぎているように感じることである。
 
するとどうなるかというと、その一点を絶対化、固定化することで真実は無限界で、未知なるものに向かって開かれた神秘的な世界それ自体ではなく、抽象化され、観念化された美しき一断片になってしまう。
 
それが観念化した一断片であるがゆえに、それについて語る人々の言葉は金太郎飴のように同じものになる。それぞれ個性があるように見えて、とある一つの観念を様々な角度から語っているだけの、定型で、実につまらないものになってしまうのだ。
 
真実は一つだから、ということでその類似性は逆に許容され、その情報を求める側にとっては安心の材料になるようだが――そうしたジャンルに救いを求める人々は同じような言葉を求めつづけ、繰り返し摂取しつづけなくては安心できない――、ぼくからするとそれらは結局、「ノンデュアリティについて」の表現で、「ノンデュアリティ自体」の表現ではない。
 
言い換えると、「世界」という観念は「世界」そのものではないし、「人間」という観念は「人間」そのものではないし(だからこそ七面倒な文学などがある)、「空」という観念は「空」そのものではない。
 
それでは仮に「空」というものが何かを自分なりに簡潔に表現してみると、「空」とは動的なものである、ということだ。

それは常に、「ing」の作用であり、主体的には、現れたものを味わって消してゆき、落下させる動きとなる。その余分なものが落下し、浄化した瞬間においてのみ「空」があるのであり、そこにおいて創造的エネルギーが宿り、具体的創造行為が行われる。しかも、その創造は過去と同じものではなく、常に未知なる、新しいものである。身心脱落と現象世界における具体的創造――この飽くなき働きの中にオリジナリティがあり、創造性があり、人間の自由と無限の可能性がある。
 
つまり、「ing」の創造的な営みの中にしか、この現象世界に「空」は存在しないことになる。
 
固定的で、絶対的な、安定した真実としての「空」というものは存在しない。
 
観念としての「空」もない。
 
それは動的な作用の中にのみ現れる、時間と時間の隙間の領域である。
 
しかし、その領域にこそ未知なるものが流れ込む無限があり、人は、その未知なるものと共にあることで創造的に、新たなものとして生まれ変わるように立つことができる。
 
常に「ing」であること――それが「空」が立ち現れる絶対条件だ。
 
と、「空」ひとつとっても「ついて」ではなく、「自体」から始めるとこういう風になる。自分の身心に基づいた感覚で、自分の言葉で、長ったらしくとも、どうにかこうにかして不格好に表現さぜるを得ない。
 
しかし、そこには、必ず体感と肉体的及び実存的認識レベルから響く「形式」が付与される。「形式」とは個人と世界の関わり方そのものであり、振舞い方であり、すなわち、個性である。
 
その個性から現れ出たものを客観的な形にまで煮詰めれば「芸術」と呼ばれるものになるだろうし、メッセージ性を強くすれば「宗教」的な言語に、体系化すれば「哲学」に、構造化すれば「思想」にもなりうるだろう。
 
どちらにせよ、「自体」について語るのならば必ず自分自身の独自な言葉でなくてはならず、そこには必然的に個性が生まれる。その「個性」から生まれた言葉こそが真に魂を震わせる人間の言葉である、と思う。
 
そう、ぼくはもっと、人間の言葉が聞きたいだけかもしれない。人間と人間として誰かと話し合い、響き合えたら、こんなに素晴らしいことはないのだから。
 
(2015年アメブロ掲載記事・改稿)

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