自己浄化の方法と身心脱落について
肉体的、及び心理的傷みとは何のためにあるのか? どうやったらそれは一人の人間から消えうせるのか? この大問題に対して、とある体験から一つの出口を見出したので、もしも肉体的病、及び極度の精神的苦悩がある方は参照にされたい。ただし、これは個人的な一例に過ぎないことを先に明記しておく。(2011年8月末のレポート)
●肉体的病の浄化について
自分は幼少期から30年間、ある慢性的病(呼吸器系の病とだけ言っておく)に苦しめられてきた人間で、拙著(『悟り系で行こう――「私」が終わる時、「世界」が現れる』明窓出版)に書き記したような「私」から「世界」への主体的認識の転換(俗に言う悟り体験?)があった後も、「病の苦しみを取り除きたい、治したい、排除したい」という本能的欲求を消すことはできなかった。自我を形成しはじめた頃からの生理的条件付けが、今もなお自分自身を支配していた。現代の医学に限界があるのなら、と、ある種の心霊治療に心引かれたこともある。リスクを犯した外科手術を施しても、それは数年すると悪化してしまうのである。
ところが、先日のとある体験を境に、「苦しみの受容」による劇的な治癒という現象が生じたので、ここに記しておきたい。しかし、これは非常にデリケートな問題であることは理解しているので、できうる限り虚飾なく、客観的に表現しなくてはならない。とは言っても日が経っていないこともあり、ある種の高揚が滲み出てしまうことは避けがたい。もちろん、後々この体験を客観視し、その原理構造を論理化することも可能だろう。今は「体験レポート」として、ある種の臨場感を損なわぬよう書き進めてみたいと思う。
猛暑日が続いたとある夏の晩(2011年8月20日)のことである。20年前の呼吸器官の手術の後遺症により、自分は激しい肉体的苦痛に苛まされていた。このような激烈な苦痛の症状が出るのは3度目で、前は夜中に鎮痛剤を求め、一晩で救急病棟に2回ほど駆け込んだこともある。それでも痛みは治まらず、顔面は腫れ上がり、バファリンを1日に10錠飲んでいた(これは頭が朦朧とするばかりで効かなかったが、あれは数を飲んでも効果が上がるものではないと医者から注意された)。しかし、今年は一週間ばかり鈍痛が続くものの、そこまでの激痛は始まらず、顔面も腫れ上がらず、ほっとしていたところでついにそれが来た。
最初、ああ、ついてないなぁ、と思い、痛みに耐えていた。前のようにならないことを祈るのみだった。人間には、決して耐えられぬ肉体的苦痛というものがあるのである。ただ、どちらにしろ逃げられないのなら、この痛みをとことん味わって何かを学ぼう、と腹をくくって待つことにした。ここまでの苦痛は、逆に貴重な体験であろう、と。
この時、ひょんなことを思いついた。それは、この痛みは、誰かの痛みの肩代わりなのではないだろうか、というものであった。
世界には苦しみの総量があり、自分がその苦しみの一つを担っているのだ、と。
これは思いつきというよりも、なぜか間違いのない事実に感じられた。誰か見知らぬ罪なき子供の痛みを肩代わりしているのなら、もっと味わいたい、自分が味わって苦しみ、痛みを浄化してやりたい。
すると、「もっと痛くなれ、もっとこい」という風に、いつもと真逆の態度で痛みに関係することができた。痛みの中に入り込み、とことん味わう。それは苦痛ではなく、喜びなのだ。苦とは、天から授けられた恩寵なのだ。母親が、自分の子供の痛みを肩代わりできるというのなら、こんな風に思うに違いない。だがそれを自分の子供ではなく、見知らぬ罪なき子供たちのために、と真に感じることができれば、それは愛情を超えた慈悲になることに気づいた。そこには、我が子への執着さえないからである。
「世界に無数に存在する苦しみの一つを消すために、あなたの苦しみは存在する」
こんな宗教がかった言葉が脳裏に生まれた。誰もが、痛み、苦しみを請け負っていたのである。
痛みの排除ではなく、受容が始まった。痛みは自分の中に入り込み、溶け込み、消えていった。すると不思議と痛みは痛みでなくなり、喜びとなった。何か、ドーパミンのような脳内物質が出たのは間違いないだろう。しかし、それは単に心理的トリックによるものではなく、「慈悲の場」とでもいうべき何かが自分の中に生まれたことによるものだという確信があった。
慈悲は、痛みを溶かし去り、足の下から抜け落ちるように消していった。それでも、物理的苦痛は治まらなかったが、心理的側面において苦痛はもはや苦痛ではなかったので、むしろ貴重な時間となった。もっと苦痛が長引いて欲しいとさえ思った。一分一秒でも長く――
これから、自分は肉体的不快感、苦痛に対して、「自分の痛み」とは思わないことだろう。それは「世界の痛み」であり、自分に与えられた痛みは、その人の使命、役割に合わせて盛られた分量なのだ、誰かの痛みを消しているのだ、と。すると長期に亘って自分を苦しめてきた慢性的な不快感さえ、「痛みへの感謝」へ変わった。
翌朝、目覚めると、痛みはきれいさっぱり消えうせていた。それどころか、長年に亘って自分を苦しめてきた慢性病による不快な症状もほとんどなくなっていることに気づいた(よく、「癌に感謝して治った」などという奇跡話を耳にするが、自分にとってこの病の克服は同様の意味があった。まともに呼吸ができるということの解放感!)。
これが束の間の恩寵ではなく、真の自己治癒であることに疑いはなかったが、それでも「たまたまではないか」と恐怖した。とりわけ、慢性病は、数十年に亘って自分を苦しめてきた物理的な障害であり、根本的に治るものではないからだ。実際、幾度か隆起したが、それはもはや不快なものではなく、苦しみを受容する度に、症状が劇的に治まるという肉体の不思議を味わった。今では、何一つ薬を使っていない。
どちらにしろ、「苦」は「苦」ではなくなった。一切は感謝によって受容されることにより、浄化されて消えてゆく。心のあり方が、肉体にも影響を及ぼすことは明白であった。もちろん、心理的メカニズムと肉体的なそれは一つのものであり、ある種の脳内物質によって、唯物論的に説明がつく現象なのかもしれない。しかし、その源にあるものは、個人的枠組みの外からやってきた慈悲の流れそのものであることに疑いはなかった。
●精神的葛藤の浄化、身心脱落について
さて、この肉体的苦痛の浄化方法の発見は、すぐさま精神的苦痛、葛藤の浄化に応用できることに気づいた。それは葛藤による苦しみに対し、次のような心構えを持つことを意味する。
世界には今、苦しみの総量がある。個人的苦しみというものは存在しない。何か人から葛藤を与えられた時、悲しい時、苦しい時、それはあなたが担い、浄化するべき仕事として与えられた「苦」なのである。あなたがそれに気づき、味わい尽くし、消してゆくことは、誰かを助けていることになるのである。それらに感謝し、受容し、味わうこと。戦わないこと。他者の「苦」として受け入れること。世界の一員としての使命感。
実際、これを実践すると、不思議なことに「葛藤」「苦」が抜けてゆくのがわかった。病が抜ける感覚と同じであった。ありとあらゆる葛藤が抜け落ち、自分の中に留まらない。下へ、下へ、抜け落ちてゆく。
ああ、この葛藤、苦しみはもはや自分の「我」のものでさえない。これは他人の「我」だなという感覚があった。
これまで「自我」が縮小すれば「世界」は拡大する、という認識はあった。しかし、「自我」はあくまで自我であり、忌むべきものであった。ところが、もはや「自我」さえ存在しないことに気づいた。それは世界に集積された我の一部であり、つまり、「他性の我」なのだ、と。
誰かの味わうべき心理的葛藤を、今、自分が世界から与えられ、それを味わって浄化している。それは心理的トリックではなく、明晰な事実だと感じられた。すると自我の底蓋がなくなり、抜け落ちて、一向に留まらなかった。何か感情が溢れても、それは真下に抜け落ちてゆく。何か葛藤、疑念が生まれる度、「ああ、来たな、喜んで」と思えた。それは誰かの葛藤であり、苦しみなのだ。
苦しみに「個性」は存在しなかった。その苦しみは「我」のものではないゆえに、自分の中につかまる場所を持たなかった。すべての葛藤はつかまる場所をなくして滑落し、下へ、下へと滑り落ちてゆく。すると瞬間的に生じる葛藤のみならず、これまで贅肉のようになって蓄積し、自分のパイプを詰まらせていた自我の残り滓が、次第に浄化されることがわかった。それは自我の完全な終焉を意味するのではなく、瞬間、瞬間に生じた葛藤を滑落させるパイプを太く、きれいに掃除する感覚であった。もはや、自分の中には何一つ本質的葛藤は留まらないのだ。
一晩、歩きながらその状態を味わい、抜け落ちて留まらない心身状態を心行くまで楽しんだ。星は美しく、空気は澄み渡り、浄化された世界は感謝と慈悲に満ち満ちていた。自己浄化は遍満する喜び、慈悲の終わりなきシャワーであり、世界をも浄化する力を持つことを知った。世界の浄化とはすなわち、他者の苦しみ、悲しみの理解であり、受容である。しかもこの慈悲深きエネルギーの流れは、悟りを追い求めるようないちかばちかの賭けではなく、感謝と受容のプロセスを通して、誰にでも味わえるものなのだ。
禅用語に、「身心脱落」という言葉がある。これは曹洞宗の祖である道元禅師の言葉であるが、「心」も「体」も幻想であると見抜き、執着しないことで、それはこの世から抜け落ちてゆくといった意味らしい。自分の場合も「抜け落ちる」という感覚は同じであり、これは禅の世界でいう「身心脱落」なのかな、と思うようになった。
もちろん、禅僧でもなんでもなく、坐禅さえまともにしたことがない自分が「身心脱落した」と言うのはおこがましいし、勘違いなのかもしれないが、自分の自我の底が抜け落ちて、身体的苦痛も、精神的葛藤も何も留まらない状態は、「身心脱落」という言葉がどうしてもぴったりくるので、勝手にこの禅用語を使わせてもらっている。むろん、それは禅の世界の「身心脱落」と違う、というのなら別段反論はしない。単に、「葛藤、苦痛が自ずと抜け落ちていく状態」と言い直してもいいのだから。
ただし、この状態は、完全に自我がなくなるのとは違う。なぜなら、身心脱落しても、常に「我」は生まれるからである。不条理な現象に満ち満ちた日常生活の中で、「葛藤」は際限なく生まれる(それは確認した)。時には、あまりの不条理に出会うと、葛藤が溢れ出し、浄化装置が根詰まりを起こすことさえある。それでも、その葛藤、苦しみは、ほどなく抜け落ちてゆく。前は、シャワーのように小さな穴しか開いていなかったものが、何百倍もの穴の大きさになった気がする。
その穴からは、時に、巨大な滝のように水しぶきをあげて落ちるような大きな悲しみの感情もあるだろう。誰かに、水しぶきを浴びせて迷惑をかけてしまうことさえあるかもしれない。しかし、それは多少時間がかかることがあっても、必ず抜け落ちる。これは肉体的苦痛に対するのと同様、「受容」と「浄化」の原理によるものである。
さて、ここで「悟り」と呼ばれる現象についてもひとこと述べておきたい。徹底した「自我」凝視による「自己解放」の体験から、「我」は幻想なりと認識することは、自我を中心におかない生き方の最初の一歩として極めて重要なプロセスである(これは拙著で記した体験である)。しかし、瞑想によるものであれ、坐禅の果てによるものであれ、クンダリーニの上昇によるものであれ、「自己解放」の神秘体験は、エクスタシーを伴うがゆえに、この体験を「悟り」のゴールとし、これで絶対幸福に至ったとする幻想が生じやすい。また、仮に体験があっても、それを知的イメージとして硬化してしまう限り、自我は体験とセットになって肯定されることによって拡大し、魔境に陥る危険性もある。
身心脱落は、刹那の見性とは真逆のベクトルを持った動的方法論である。それは、一切の体験を「気づき」と「受容」によって浄化し、落としてゆく現在進行形の作業であり(この時には神秘体験さえ執着せず、落としていかねばならない)、それによって貫通した太いパイプに、慈悲のエネルギーを貫通させることである。この終わりなき「苦しみ」、「悲しみ」の受容が自身の内的浄化から、他者のそれへと及ぶとき、「慈悲」が拡がり、世界は澄み渡る。それゆえに、この浄化作業に終わりはなく、ゴールなどというものは存在しない。しかし、慈悲による万人の悲しみの浄化それ自体の中に喜びがあり、創造があり、真の解放があるのだ。
身心脱落とは、自己の「悲しみ」だけではなく、万人の「悲しみ」を受容し、落とし、世界に還元する「慈悲の場としての身体構造の確立」のことを言うのである。
(エッセイ集『窓』第18集(明窓出版)掲載)