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【殴り書き】『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』

 公開から本日でちょうど2年経ち、今作が物語としてどう機能しているのか、自分なりに考えてきたことをどこかに出力しようと思い立ってここに記すことに決めた。ただ、諸々の検証・履修が全く追いついていないので一旦まとまっている全体像をなんとなく書くだけ、という感じで。散文的ですが付き合える方はどうぞ。

 これほどまでに貧弱で出鱈目な映像とプロットラインで走っていながら成立している映画にはこの先一生出会えないかもしれない。日常と非日常、虚構と現実、科学と魔法、衒学と韜晦、大人と子ども、内と外、公と私、様々な輪郭が溶け合って不可思議に、しかし相補的に全体を構成している。モラトリアムが映画の神様を味方につけてしまった。ヤバすぎる。

 パンデミックの混乱、ポスト・トゥルース渦中において制作された今作が(意識的にせよ無意識的にせよ)個人と社会の中間項の喪失した、閉塞感あるセカイ系的レイヤーを有し、「接続か断絶」という二者択一のテーマを通底させている点にはある種の必然を感じる。世界との距離がつかめなくなり、境界と輪郭の消失した時代の創作物だ。映画の冒頭と末尾(と、中間地点)で、内と外を隔てる「窓」が「社会との接続」のモチーフとして置かれ、マクガフィンとなる「魔法」は「社会との断絶」のモチーフとして置かれるなど、演出選択が見事。(彼が「窓」と「魔法」のどちらを選択するのか。「窓か魔法(MAGICA)」=『まどか☆マギカ』)そのほかにも、円環(スリングリング)と運命(電車)が中盤のアクションでこれでもかと強調されたり、人間同士のディスコミュニケーションが描かれたり(今作ではそこを乗り越える独善とエゴもセットだが)と、類似性を指摘し始めると結構キリがなかったりする。

 また、シリーズ前作『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』から「キャラクター(象徴)性を纏うこと」というテーマを継続しつつも、フェーズ4的「相対化」の文脈としてそこに「キャラクター(象徴)性を纏うことによる人間性の喪失」という批判的視座も組み込んでいる。ヴィランたちを治療(Fix、Cure、Care及びその是非、翻訳が云々…の問題は長くなるのでここでは割愛。)していく展開もここに準じており、肥大化していくアイデンティティとその暴走に対してのシビア(しかし真っ当)な解答も提示される。(まあ要は「グラデーションを失ってはいけない」みたいな話だが。)”シリーズクライマックス”の名分のもと、『シビル・ウォー/キャプテンアメリカ』での初登場以来「大きな物語とその余波」に巻き込まれ続けてきたトム・ホランド版の特徴をむしろ誇張してガワを固めつつ、大枠のテーマは「思春期の人格形成」に軸足を置きながら「他者との関わりの中でしか自分を見いだせない人(それはある意味「きっと何者にも成れないお前たち」)」という物語へと収束させている点も見事で、脚本の練度のせいで諸々の致命的欠陥の多くが結果オーライ的に寧ろ美点になってしまっている部分もある。ラッキーパンチにも程があると思うが。

 重力と落下は『スパイダーマン』シリーズにおいて必然的に重要なアクションとなるが、今作は落下を「悪への転落」のトリガーとしている。ハッピーのコンドでわざわざ組まれているフリント・マルコとマックス・ディロンの「落下」を巡る会話は一見どうでもいい場面のようで話の根幹を突く重要なものだ。(“Damm, Gotta be careful where you fall.”「=”落ち所”には気を付けよう。」)映画のミッドポイントとクライマックスでは、どちらも落下のアクションを介してピーター・パーカーが感情的に追い込まれていく(が、長くなるのでこれまた割愛)。

 結局のところ『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』は「成れなかった人」の話だ。「アイアンマン」のようにヒロイックには成れなかったし、メイのように無償の愛を持つ人に成れなかった。ナイーブなモラトリアムに甘んじ、アンバランスにスウィングをしつづけた彼は遂に「落下」し、二度と払拭しえない憎悪と怒り、どうしようもない罪悪と後悔を強く植えつけられてしまう。(だからMJの額についた気にするほどでもないかすり傷に大袈裟に動揺してしまう。)しかし、同じように「落下した人」が彼を助けてくれる。同じように成れなかった者同士として、「正しく成ろう」と「善く成ろう」とし続けてくれる。(”Trying to do better.”=努力してます。)

 ゆえにラスト、彼はスーツに身を包むのだ。それは自身の醜悪さや穢れた姿を隠すためであり、ピーター・パーカーが叶えられなかった理想をスパイダーマンという虚像に仮託するためだ。それでも、彼が「ヒーロー」になることは決してない。穢れ、罪、後悔、そしてそれを抱えたものが力を行使する「責任」として必ず彼には重力がかかる。それは再び「落下」するリスクと不可分であり、彼が卑しい人間でしかないことの証左だ。しかし、だからこそ、「重力」という絶対的な法則を覆せない彼だからこそ、現実に根差す者の経験値を使って理想(スパイダーマンという虚構)を制御できるのも確かだ。とんでもなく卑しい人間の彼だからこそ、象徴性を纏いながらも人間性を捨てずに生きていける。スパイダーマンは空を飛べない。それは彼が「ヒーロー」じゃないからだ。アイアンマンは空を飛べる。それは彼が「ヒーロー」だからだ。(括弧付きの「ヒーロー」とか、この辺の詳細は別の機会に書こうと思うのでこれまた割愛。まあ簡単に言うと「大義のために個人の幸せを犠牲にすることは虚しい。」という話です。察しの良い人は分かると思いますが。)

 現実と虚構の相補性を保ちながらの自己犠牲と自己擬制。「成れなかった者が、何者かに成ろうとし続ける。」それはやっぱりこの映画が「映画であろうとし続けた」スタンスと重ねずにはいられないし、それを現実の紛いモノである「映画」の姿と重ねずにはいられない。これはやっぱりとてつもなく映画的な映画なんじゃないかなと思うし、紛いモノだからこそ映画って尊かったんじゃないの、と思うのだけれど。だから、成れなかった人(そしてこれからも成れない人)の物語として、この映画は魅力的なのだと思う。だってフィクション(虚構・擬制)ってそういうことなのだから。

 成れなかったぼくたちへ。許されないぼくたちへ。まあせいぜい、おだいじに。

 と、事程左様にとりとめのない話をしたが、基本的にガワはアホ映画だ。大いに笑える。それも呆れるほどに。しかし、とにかくトンマナとその提示が見事すぎるので飲み込まざるを得ない。魔法×クリスマス×モラトリアム×学園コメディ(舞台装置×舞台建て×主題×規格)の四段構えによってこれでもかと事の曖昧さを際立てているのがよく分かるが、オープニングで「I Zimbra」など流されてはトンマナの宣言として完璧すぎて出るツッコミも出ないというもんで。

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