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他者と、孤独と、曖昧さと-『Chime』-

 以下は、黒沢清の『Chime』を観た雑感である。こういう話なんじゃないかな、ということを考えたので、何か参考にしたり、各人補完したりしていただければ。

自分のことしか考えずに生きてたらそりゃそうなるわな、としか思わないのだけれど、私も私のことしか考えずに生きてるから、いつかこうなるんだろうなと思いましたまる

 みたいなことを思う訳であるが、結局、その「自分」すら満足に考えられていない。あるいは他人の空間的併存を一切考慮できていない。だから、リズムが狂う。主人公一家の会話は、全くこれっぽっちも噛み合わない。

 その狂ったリズムを必死に調節しようとする。缶を潰したり、料理したり。しかし結局、一方通行の単調なフィードバックしか得られない。空き缶も食材も、要は「死体」同然なんだから。リズムを整えてくれるだけで、コミュニケーションの不全は治らないし、他者を考慮した生へと昇華されることもない。

 だから、他者とのコミュニケーションを徹底的に避ける。避けるしかない。冒頭10分ほどの生徒とのやりとりでこれでもかと克明に、まざまざと彼の拒絶と機能不全ぶりが晒される。光を介して、拍車がかかっていく。

 (また「頭が機械化されている」という田代のセリフもきっと、人間から異化され、コミュニケーション能力を失った者の表象だろう。だから距離の詰め方がおかしくなってしまう。極端な拒絶か、極端な介入かだ。)

 ほとんど存在を失った幽霊でありながら、しかし必死に自分の領域を守ろうとする。女生徒の殺害も、面接での首尾一貫しない/矛盾した発言も、どちらも不安定になってしまう自分の領域・価値の保全のためだ。あるいは欺瞞を剥がされることへの防衛規制だろう。

 スコップを投げて橋を駆け抜ける一連のロングショット。不安と恍惚がないまぜになる。現状への不安と、現状維持の喜びと、もしかすると一線を越えられたことの恍惚--ここは分からない。違うと思う。--がないまぜになる。

(あと、コーラのペットボトルを捨てるアクションが、死体を遺棄したあとスコップを捨てるアクションと相似形で繋がってゾワっとした。)

 死体しか相手にして来なかったから、死体こそが精神の安定剤だから、死体を拒絶する女生徒が怖い。というか不愉快。死体じゃないと怖いから、殺す。死体じゃないと無理だから、本当に死んでいるか、板を落として確認する。

 新しい場所に行きたくて、今の職場への誇りなんて少しも持っていないと無思考に口走ってしまう。しかし一方で、失敗し、あるいは変わってしまうことが怖いから、新しい縁を横柄な態度で待つことしか出来ない。自分の価値もまた、満足に証明できない。

 お金を借りようとする息子との会話からも分かる通り、他者の希求もまた見られる。息子は先輩と、父は息子と、対話したい。外へ向かいたい。でも、手間をかけることを避ける。(=「じゃあ、いいや」)だって面倒だから。父親もまた、息子とのコミュニケーションの不可能性に気づく。だから、他者へと向かうことができない。自分が何かしら変化してしまうのが、嫌だから。もしくは変化の仕方を忘れてしまったから。もう一度言うが、そりゃあそうなるわな。

 だから、幽霊を前にして苦しむのだ。だってそれは、ある意味自分そのものだもの。そこに居るのに、他者に何かを発しているはずなのに、どうしたいか分かってもらえない。どうしたいかも分からない。幽霊を見た主人公が叫ばず、まず窒息するようなリアクションを見せるのは、自分の(無に等しい)アイデンティティを暴かれ、領域を侵犯されたからに他ならない。女生徒の幽霊を目撃した帰りに鏡で自分を確認するのも、自分が生きているかどうかの確認だ。

 その意味でがらんどうの自分を受容するしかないあの末尾は、幸とも不幸とも付かない結末だろう。しかし、社会にとってそれが恐ろしい存在であることは、確かなのかもしれない。だから、過剰な劇伴が流れる。幽霊が街を歩いているんだから。

 とか適当に考えたが、色々と穴はあると思う。ただ、少なくとも、別にこれは、これっぽっちも怖い映画ではない。『降霊』とか『回路』とかも、多分そう言う映画だ。孤独と、他者の分からなさと、他者の希求と、それでも治せないコミュニケーション不全と。

 いや、全然、怖いんだけどね。でもまあ、怖くはないんです。

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