因果
私たちの存在を独立した絶対的な"物体"として認識するのか、"事象"(出来事)と認識するのかによってものの見方が変わります。
別の言い方をすると、私たちの存在を物理法則に支配されかつ三次元の世界(例えば我々の五感)で初めて認識される"モノ"として認識するのか、あるいは、認識されるまでは波として空間を漂い、事象の関係性や連なりによって初めて"存在している"と定義するのか。
私は、基本的に存在を"事象の連続性"と考えています。
今日のテーマである「因果」は、物事が生じるきっかけとなる原因と結果のことを指します。
この「存在」の定義が因果を断ち切るための話に繋がりますので、ぜひ、意識しながら読んでみて下さい。
1.因果の根源はいつから?
私は子供の頃からこの世の中は「何かが変だな」と漠然と感じていました。
皆が同じようならことを考え同じように行動し、似たりよったりの人生を送っていると。
また、本当はこの世の中はもっと開けているのに何か狭い世界の中に押し留められているような感覚がありました。
まず、個人的な話をします。少し長いです。
私は6歳から高校まであるスポーツをやっていて、高校生になるタイミングで親元を離れて寮生活をするほどの身の入りようでした。
周りからは、「親元離れてまでやるなんて凄いな」とか、卒業してからだと「好きな事をやらせてくれた親に感謝しないとな!」とか、まぁ、ごく当たり前のようなことを言われてきたのですが、どれも私にとっては的外れな意見だったのです。
何故かと言うと、私はそのスポーツを本気でしたくて堪らなかったわけではないし、親元を離れて青春を注ぐほどの情熱がなかったためです。
では何故、親元を離れてまで大切な時間を費やしたのか。
それは、"そうしなければならない"と勝手に自分で思い込んでいたからです。
6歳で始めたきっかけは子供ながらの興味本位だけであり、それを高校まで続けて、ましてや親元を離れてまでやるなんて考えてもいませんでした。
私が通っていた学校では、小学4年生の時に2分の1成人式というものがあり、そこでは、『自分の将来の夢』と『20歳の時にどういう自分になっているか』を発表します。
皆が当時やっていたスポーツの「プロ選手になります!」と発表し、私も特にこれといった夢がなかったので右へならへしました。
スポーツをやっていなかった他の生徒は、公務員になるとか、実家の家業を継ぐとかどれも当たり障りのない感じ。
それともう一つ。
私が他の生徒よりもそのスポーツがたまたま上手だったこともあり、いつしかチーム内でも家庭内でも「あなたは高校に上がるタイミングで親元を離れて強豪校に行くんだろうね」という認識が出来上がっていたのです。
その前提で話をされたこともあります。
私が子供の頃、地元の高校に通わず「この高校に通いたい!」と発言した事は一度もなく、実際、高校生になる時も親の方から「〇〇高校に行かないか」と、言われて内心行きたい気持ちは全く無かったですが、断ると悲しませないかな…とか、怒られないための良い理由が見つからなかったため、その場でOKを出しました。
そのようなマインドだったためその3年間というのも、全て中途半端に終わります。
人見知りの私は人に嫌われないように常に、自分の感情を100%表に出さないようにしたり、「何故こんな事を続けているのだろうか」と、自問自答を繰り返して自暴自棄にならないように自分の考えを無理やり矯正したりと、とても物事に集中出来る状態を作れていませんでした。
結果、悩み事を相談出来るような親密な人間関係も生まれなかったですし、部活動でもパッとせず。
これは大学に進学してからは同じで、部活動はやっていなかったのですが、かと言ってまともに勉強する訳でもなく遊んでばかり。
自分の中に何も積み上げられなかったのです。
それから数年が経ちこれまでの自分の人生を振り返ってみると、ずっーと、親に褒められたいとか親を含めて周りの大人から怒られないようにしないといけないとか、そんな気持ちが全ての行動や決断をする"土台"となってしまっていたと気付きました。
2.因果を背負ってしまう下の世代
数年前までの世の中は、一般的に選択の幅が限定的だったと思います。
情報収集も今よりも容易ではなく、昨今のように色々な人が色々な事を言うようになったのは、SNSプラットフォームが普及したこの10年くらいの間の出来事です。
また、SNSが普及するまでは既存の枠組み以外の拓けた"横の繋がり"を築くことも現在より容易ではなかったと思います(現在も自発的に行動しないと新しい繋がりは生まれませんが)。
そのため、多くの人にとって同じ価値観を持つ人間と接触する機会は限られていたということであり、認識を通わせる場も少ないですから、例え世の中に違和感を感じていても自分の置かれた状況から脱する為に何か行動に移すまでに自分1人で何とかしないといけないため、以前は今より勇気と時間が必要だったと考えられます。
私たちは誰しも親のお腹から生まれて育ち、親もしくは先代からの因果や業を程度の差はあれど受け継いでいると思います。
また、「親→子」以外の関係性以外ですと、「上司→部下」や「先輩→後輩」「先生→生徒」の関係から広い意味での"因果"(時代遅れの慣習や常識、時代性など)を、教えられたりして下の世代は、間接的に良くも悪くも因果を必ず受け取ってしまいます。
中には、自分の上手くいかなかった人生や単なるエゴを子や下の人間に与えて回転(本人は無意識でしょうが)させようとする上の世代(親)もいますね。
「悪い場合」の例を1つ挙げると、我慢の美徳化です。
かつての私もそうだったように本来やるべき事ではないもの(知識を習得せず大衆娯楽であるスポーツ"しか"やらない。※ただ、運動はいくつになっても大切なことだと思っている)や、情熱を注げないものを常識的に考え、「耐えることが素晴らしい」と思い込むのは、まさに悪い因果(環境や教育)の結果。
何故なら、この世で最も価値のある時間(生命の時間)を常識的な習わしの範囲内の物事に注ぎ込むことによって、同時に、本来、人類や生命にとって大切な学びの時間や自然の素晴らしさを気付くための時間を捨てているのと同じだからです。
さらに世俗的なところで言うなら、毎日会社で奴隷のように安月給で働かされて、やりたくもないのに「生活のため」と思い込まされて働かないといけないという、今の社会の構造が出来上がったのも悪い因果があったからでしょう。
各時代の当時の状況や人々のあいだで蔓延している思想や考え方などが、どうしても下の世代にも伝わってしまうということです。これは仕方のないことです。
現在、これまでの常識的な生活から少しずつ変化を加えて新しいことに挑戦したり、縛られてた状況から意識的に抜け出して人とは違う生き方を模索しようとしている人が多いのも、昨今が様々な因果を断ち切るための時期に差し掛かっているからと言えるでしょう。
多くの人間の意識下に影響を与えるほどの地球もしくは、宇宙規模でのサイクルの変化によるものだと考えられます。
ピラミッド型権力構造の会社は未だに多いし、会社の性質から鑑みてこの構造が根本から変わることはこの先もないでしょうが、それでも例に挙げた「我慢」を美徳と考えず、縛られていた考えから抜け出そうと自分の頭で考え始めた人が少しずつ増えているなと、ネットを通じて感じています。
因果が断ち切られる、または、自分自身で悪い因果を断ち切っていくことが、これからの時代を迎えるにあたって必要なことだと思います。
3.『進撃の巨人』で主人公エレンが取った行動
ここで話題を少し変更します。
『進撃の巨人』は昨年2023年末にアニメが完結し、漫画の連載も終わりました。
あの漫画はまさに、"因果の連鎖を断ち切る"話だったなと思います。
何百年もの間、人類は戦争・略奪を繰り返し、突如現れた巨人の力が抑止力となって平和がもたらされるかと思いきや、巨人の力を使って以前よりも酷い世界になっていく。
生まれてからずっと狭い島の世界しか知らなかったエレンたちは、島の敵と無垢の巨人を全て排除して初めて、外国に潜入捜査を行います。
エレンは始祖の巨人の血統と繋がり、全ての巨人の始まりである、始祖ユミルまでの全ての記憶を辿ります。
そこで真実を知ったエレンは、仲間と逸れて単独で行動するようになり、最終的には仲間達と戦います。
それは、自分が人類史上最悪の殺戮者の演じ、全ての人類が理解し合い手を取り合うように願っての行動でした。
誰かがやらなければ永遠に続いたであろう殺戮の連鎖を断ち切るために、エレン1人が全てを背負いました。
仲間達との戦いの末にエレンが世界から全ての巨人の力を無くしたことで、人類は始めて理解し合う努力をするようになります。
昨今は政治や経済、金融、歴史その他諸々の膿が溜まったものを世界中で"精算"しているように見えますが、変化が激しくなった2023年に『進撃の巨人』が終わったというのは、すごく象徴的だったと思います。
4.因果を断ち切り次へ進む
前置きが長くなりました。
私はこの記事の最初に「私たちの存在は事象(出来事)の連続性によって生まれている」と考えていると話しました。
絶対的な個体とは考えていません。
何故、そう考えるのかと言うと"人は常に脳が受け取る情報によって変わる(変われる)"と考えているからです。
私たちは常に五感を通じて得た情報を処理してこの世界を認識していますが、受け取る情報は人それぞれ全然違います。
情報を処理して世界を認識しているのなら、言い方を変えれば、人間の世界に対する認識は受け取る情報の質によって区別できるということになります。
ここで言う「情報」という言葉には、自分自身に対して投げかける言葉や頭の中で何度も繰り返す思考なども含まれています。
認識してから判断し、アクションを起こすため、受け取る情報の違いが行動にも影響を及ぼすのです。
ここで「因果」を自分がやってきた行いの積み重ねによって生まれる結果(現実)と、考えてみましょう。
すると、私の20歳までの過ごし方や考え方が「何も積み上がっていない自分」という強烈な現実を創りあげたのだと、はっきりと分かるわけです。
今の"私"を造っているのも、私の脳が常に情報を処理して世界を認識し、その認識に基づいて判断と行動をして外界に影響を与え、外界が自分の元に反射した情報を処理して認識して…という永遠のループを繰り返しているから。
今の"私"とは言わば、そのループの中から現在の自分の抜き取った存在だと思うのです。
最初に説明した「事象の連続性」の中の一部を切り取ったのが"私"という存在なのかなと。
そのため、私が受け取る情報を変えて再び20歳までの自分に戻ることも可能でしょう(勿論、そんな事はしませんが)。
因果を断ち切ることを考える時、以上のことを踏まえて考えていくととても明瞭になると思います。
私たちが悪い因果を断ち切りたいのなら、自ら意識的に永遠のループに手を加えて、流れを変えなければなりません。
具体的に言うと、「悪い習慣を断つ」「普段受け取る情報を変える」「環境を変える」「新しい人間と関わる」「知らないことを学ぶ」「食べるものを変える」「見るものを変える」「聞く音楽を変える」などです。
今の自分のまま一生を過ごしても良いのなら別ですが、何かを変えなければずっと過去からの因果を断ち切ることは出来ませんし、時には、他人の協力が必要な場合もあるでしょう。
5.最後に
今後、世界はますます変化が激しくなっていくことが予想されます。
私だけでなく多くの人が言ってることです。
世界が変化するのなら、私たち1人ひとりもそれに応じて、身の回りのことを変えていかなればならないとは思いませんか。
私が今でも20歳の時の自分のままでいたなら、きっと、今頃は当時よりももっと自分の本心が表現できない皮肉な人間になっていたと思います。
色々なことを変えることによって、同時に人間関係や時間の使い方なども変わりましたが、全てを天秤にかけた時に、"自分の人生をもっと強烈に味わいたい"という気持ち以上に優先するものはありませんでした。
現在の世界情勢は、政治にしろ経済にしろ、宗教にしろこれまでの精算を行っています。
私たちもそれに合わせて、もし、溜まりに溜まった膿があればそれを吐き出して悪い因果を断ち切りましょう。
以上です。
最後まで読んで頂きありがとうございます。