Toddy's Episode 総集編
以前のBlogでまとめていたトッド・ブラックアダーHCのエピソード(1-22)のまとめ版です。初稿の内容から一部修正しています。また新規エピソード(23〜)も不定期で追加しています
本エピソードは2001年にニュージーランドで刊行された『Loyal: The Todd Blackadder Story』を元に独自で調べた内容などを含めてまとめたものです。
Toddy's Episode 01 All Blacks主将としてのトッドHC
1999年W杯を準決勝敗退という結果で終えたAll Blacksは、新たなHCとしてウェイン・スミス氏を招聘した。
スミス氏は97年から3年間クルセイダーズで共に過ごし優勝を勝ち取ってきたトッドHCのキャプテンシーとプレイの質の高さを評価しAll Blacks主将に任命した。(99年W杯時はメンバー外)
2000年シーズン開始時にスミス氏とトニー・ギルバート氏とトッドHCは、All Blacksの伝統について議論し、All Blackのジャージがニュージーランド人にとって何を意味するか、それがAll Blacksのコアバリューであると話し合った。
そこでスミス氏は数多くのAll Black経験メンバーにインタビューを行い、その映像をまとめてチームに共有した。それはただAll Blacksが何者であり、All Blacksのゴールは何かということを再認識させるためのビデオであった。 ※ブレイブルーパスの猛勇狼士の取組に似ていますね
トッドHCが主将として臨んだ2000年ブレディースローカップ第1戦はシドニーで行われた。この試合の観客数は109,874人であり、同杯の最高観客動員数記録となっている。その大観衆の中、All Blacksは前年のW杯優勝チームであるワラビーズを39-35で撃破した。All Blacks復活を印象付ける勝利であった。
また2000年秋の欧州遠征では11月11日にパリでフランス代表と対戦した。 この日はArmistice day(第一次世界大戦休戦記念日)と呼ばれ、試合はDave Gallaher杯※を懸けた戦いであった。
※1905-06年にAll Blacksを率い、第一次世界大戦中パッシェンデールの戦いにて戦死したニュージランド人選手
フランスとの試合前にAll BlacksはニュージーランドでDaveの遺族に会い、フランスで戦没者の墓地や戦地などを訪問した。トッドHCはDaveの墓を訪れ、遺族から託された薔薇の花(Lest We Forgot Rose)を彼の墓に供えた。
またAll Blacksはフランス北部のル・ケノワ(Le quesnoy)という街を訪問した。ここは1918年にニュージーランド人による軍事作戦が行われドイツ軍と戦った地である。All Blacks訪問にあたり豪華なレセプションが催されたが、トッドHCとジャスティン・マーシャル(ABsのSH)は街のバーに出向き、かつてのニュージランド人兵士がそうしたようにビールを飲み、過ごすことにした。
トッドHCはこれらの体験を「ニュージーランド人にとって我々の歴史を知り、フランスにおけるニュージーランドの主権を感じることができた素晴らしい経験であった」と語っている。
※これらの事柄についてニュージーランド国内で教育を受けることはほとんどないようです
Armistice dayはフランスにとっても重要な日であり、この日のフランス代表は無敗で知られていたが、この試合ではAll Blacksが39-26でフランスを破り歴史的勝利を手にすることになった。
続くマルセイユでの試合ではフランスに敗れたが、トッドHCが主将として率いた2000年はAll Blacks復活を予感させるシーズンとなった。
しかし2001年5月にトッドHCは主将とABsからの離脱を命じられることになる。理由はプレーの質の低下であった。
トッドHCは193cmとLOとしては低身長ということもあり空中戦のスキルに課題があった中で、All Blacks主将としての重圧も重なりパフォーマンスが低下していた。
ある試合の敗戦後、トッドHCはスミス氏に「All Blacksの勝利のためなら自分を外すことも考えてほしい」と自ら進言した。スミス氏はトッドHCを外す考えを全く持っていなかったが、本人に申し出られたことで熟慮し外すことを決心した。
以降、トッドHCが再びAll Blacksメンバーに戻ることはなかった。
Toddy's Episode 02 トッドHCの幼少期
トッドHCは1971年9月ニュージーランド南島クライストチャーチの北に位置するランギオラで生まれた。兄弟は1歳年上の兄のスコットさんがいる。他に姉と弟がいたが、若くして亡くなられている。
お母さんのキャロラインさんはトッドHCが生まれて間も無く離婚し、子供たちは祖父が営む牧場で育った。兄弟は牧場内を流れる小川に棲むうなぎを棒で叩いて取ったりして遊んだ。
トッドHCが生まれた時の体重は約3,400gで、周りと比べて特に大きな子では無かった。
また今では穏やかでジェントルマンのイメージが強いトッドHCだが、子供の頃はよく癇癪を起こし、お母さんの手を焼かせていたらしい。
トッドHCは、他のクライストチャーチの子供達と同様に地元チームのカンタベリーのファンであり、いつかカンタベリーのキャプテンになることを夢見るラグビー少年であった。
Toddy's Episode 03 トッドHCの学生時代 その1
クルセイダーズ、カンタベリーのレジェンドとして知られるトッドHCだが、プロになるまでのキャリアは順風満帆とは程遠い困難に満ちたものであった。 少年時代は体も大きくなく痩せていて凡庸な少年であったトッドHCはカンタベリーのU-13に所属していたがトップチームには入れず当時は3rd form(おそらく3軍)に所属していた。その時のカンタベリーのコーチに、後にプロキャリアの多くを共にすることになるウェイン・スミス氏もいた。
ランギオラ高校に進んだトッドHCだが、高校生になっても体は大きくなく平均的な高校生だったという。ランギオラ高校のラグビーチームにも所属したが、特に目立つことはなく、16歳の時に高校を辞めてしまった。そして働きながらラグビーをするようになった。
トッドHCはハミルトン・ペリーという会社の工場で働き始めた。エンジニアリングは肌に合ったが、生活はかなり苦しかったようである。工場での仕事は好きだったが、毎日10時から24時まで働いていたので、いつも疲れていたという。
やがてトッドHCは働いていた工場を辞めて新たな仕事を得るためのスキル習得を目指すことにした。 南島北部のネルソンという町に行き、1年間溶接などを学ぶコースを受講することにした。ラグビーはネルソンのクラブに所属して続けた。
ネルソンで学んでいた時に、同じコースを受講するスコット・マッケイさんという人がいた。マッケイさんは、ネルソン郊外のコリングウッドという小さな町のラグビーチームに所属していた。トッドHCはマッケイさんに誘われてコリングウッドで一緒にプレーし始めることになった。
Toddy's Episode 04 トッドHCの学生時代 その2
コリングウッドでラグビーをするようになったトッドHCはそこでプリシラさん(現在の奥様)と出会う。マッケイさんはプリシラさんのお兄さんであった。プリシラさんはトッドHCと出会った当時は美容師をしていた。
コリングウッドは、ゴールデンベイに面する古い炭鉱町であったが、トッドHCは美しい自然に囲まれたこの町を大変気に入った。またプリシラ夫人の両親や町の人々もトッドHCを温かく迎えいれた。
人口300人程度の町なので、ラグビーチームは15歳から40歳まで幅広い年代が一緒にプレーしていた。チームにはスピード・ロビンソンというコーチがいて、彼のコーチングの元、幅広い年代の仲間と共にプレーしているうちにトッドHCのラグビースキルは急速に成長した。
1989年にはネルソンの代表チームであるネルソンベイのU-18チームに選ばれるまでに成長した。ネルソンベイは南島No,1を決めるトーナメントに出場し、トッドHCはNo.8でプレイした。
このトーナメントでネルソンベイは快進撃を続け、オタゴ、サウスランド、ウェストコーストといったチームを次々に撃破した。
そして決勝でカンタベリーを破って優勝を果たしたのである。
Toddy's Episode 05 トッドHCの学生時代 その3
ネルソンベイU-18によるカンタベリー撃破の衝撃はクライストチャーチにもたらされた。
しかしその中心選手であるトッドHCがかつてカンタベリーユースに所属したトッド少年であることに気づいた者はほとんどいなかった。というのも、カンタベリーユースに所属していた時にすでに両親が離婚していてお母さんのキャロラインさんは自身の姓を名乗っていたため、誰もトッドHCの父方の姓がブラックアダーであることを知らなかった。
ネルソンベイのトッド・ブラックアダーがかつてのカンタベリーのトッド少年であることに気づいたのは、当時カンタベリーのグッズ販売を担当していたウェイン・スミス氏であった。
ある日キャロラインさんが店にやってきてトッドHCに贈る大柄の高価なブーツを買おうとしていた。 スミス氏は何気なく「トッドは最近どうしている?」と聞くと、キャロラインさんは「トッドはネルソンでプレーしている」と答えた。
スミス氏はハッと気付き、「トッドの姓って何て言う?」と問うとキャロラインさんは「ブラックアダー」と父方の姓を答えた。
こうしてスミス氏はカンタベリー撃破の立役者、ネルソンベイのトッド・ブラックアダーの正体を知ることになった。 その後、スミス氏はトッドHCに合う大足用のブーツを南アフリカから輸入し、キャロラインさんに贈ることにした。そしてトッドHCをカンタベリーに取り戻すための活動を始めた。
1990年トッドHCはAll Blacks U-19に選出されるに至った。 コリングウッドのチームメイトでトッドHCと仲が良かった酪農家のエヴァン・マクレランさんは、一流のコーチングを受けてこなかった彼が代表チームに選ばれるまでに成長した当時のことを、キャリアで最も重要な時期の一つであったと振り返った。
Toddy's Episode 06 (番外編)トッドHCの口ぐせ? ※2023/7/13修正
(2022-23シーズン、プレシーズンマッチ前にBRAVERの方向けにツイートした内容をまとめたものです)
トッドHCのインタビューでは"Bloody"という表現がかなり多く用いられます。 直訳すると「血みどろに」というところですが、使用する時のニュアンスとしては「めっちゃ」「必死に」という意味合いが強い印象です。
事例としては献身的なプレーに対して“Bloody Well”と称賛したり、もっと頑張らないといけないと感じた時には“Bloody Hard”というような表現で用いられます。 20年前のインタビューに頻出する表現なので現在口語で使用されるかは不明ですが、ブレイブルーパスの選手にも使われているかもしれません。
また"Keep the composure"(落ち着きを保とう)という表現もABs主将時などによく使っていたようです。プレッシャーをかけられる場面でいかに落ち着いて自分達のプレーができるかというまぁ当たり前と言えば当たり前のフレーズですが、こちらも押されている展開では使用されるかもしれません。
余談ですが、先日の日本代表対ABs戦後にサム・ケイン主将がインタビューで全く同じフレーズを使っていてABs主将の伝統をちょっぴり感じました
11/12からのPSM3連戦ではハドル付近でトッドHCの指示を聞けるかもしれません。BRAVERの皆さんの参考になれば幸いです
[2023/7/13追記]
NZ留学経験のある大内真さんによると、Bloodyという単語を使うのはトッドHC世代以上のようで最近ではあまり使われない言葉らしいです。またトッドHCと直接お話していてもほとんど使われていないので、今は口癖という感じではないと思われます、失礼しました。。
Toddy's Episode 07 トッドHCのカンタベリー復帰
1991年トッドHCはコリングウッドからカンタベリーに戻りデビューを飾った。20歳にして念願のカンタベリーでプレーでき、大変嬉しかったという。
コーチ陣にも恵まれて良好な関係を築いた一方で、チームとしてのカンタベリーは低迷期にあった。1992年には降格の危機に瀕する程であった。
熱狂的で知られるカンタベリーファンはスタジアムに応援に来なくなり、2,000人程しか入らずスタジアムは閑散としていた。ただトッドHCとしては、家族の姿がその中にあったので観客数はあまり気にならなかったという。また当時のカンタベリー主将マイク・ブリュワーをとても尊敬していたと語っている。
NZ国内のタイトルにランファリー・シールドという盾を懸けた長い歴史を持つ戦いがある。 1994年シーズン、チームはマイク主将に導かれ、カンタベリーはこのタイトルを獲得する戦いに駒を進めた。カンタベリーのファン達にとってもこのシールドの獲得はとても価値があるものであり、シールドの獲得が近づくに連れて再び大勢のファンがスタジアムに戻り始めた。 そして1994年10月1日、ランファリー・シールドを懸けてカンタベリーはオタゴと対戦した。
カンタベリーのホームスタジアムであるランカスターパークは超満員となった。熱狂に包まれるスタジアムで笛を吹いた審判コリン・ホーク氏は、接戦で試合が進むに連れてレフェリングが試合に影響してしまうことを恐れ「明らかなペナルティ以外はペナルティを取らないようにしよう」と考えていたという。
試合はオタゴが先制しリードする展開で進んだが、PGを積み重ねてカンタベリーも食い下がった。 1点差で迎えた終盤、ホームの大声援を受けたカンタベリーの攻撃に耐えきれず、オタゴの主将ラタがゴール前で痛恨のペナルティを犯してしまう。このPGをSOアンドリュー・メルテンスが決めて終盤で逆転し、カンタベリーは悲願のランファリー・シールドのタイトルを獲得することとなった。試合終了の笛と共に大観衆が一気にピッチになだれ込んで選手たちとタイトル獲得を喜んだ。トッドHCもその輪に加わり念願のタイトル獲得を大いに喜んだという。
(ここからは余談です)
当時の試合映像がフルでYoutubeで上げられていたので紹介します。
赤黒のジャージ、カンタベリーのNo.8が当時23歳のトッドHCです。ちなみにオタゴの先制トライは6番FLジェイミー・ジョセフ(現在の日本代表HC)が決めています。JJのトライシーンは5分30秒くらいから。トッドHCが右手でJJを止めようとしていますが、バインドし切れずトライを決められてしまいます。それが悔しくて「S**t!(このク○が!)」と思ったらしいです。 その他の見所としては、31分25秒頃には腰に手を当てたトッドHCのアップが映ります。また逆転PGを献上したラタ主将痛恨のオフフィートは1時間18分55秒頃、試合終了は1時間21分頃です。ラスト2分での劇的逆転劇となったこともあって歓声と熱狂がすごいです。
さすがラグビー王国ニュージーランドですね...!
Toddy's Episode 08 トッドHCとセブンズ
トッドHCも、ブレイブルーパス選手(一部)と同様に、セブンズでもプレーしていた。
カンタベリーに戻りラグビー選手としてのキャリアをスタートした後、1992年からセブンズの試合に出場し始めるようになる。
1993年にはニュージーランドのBチームに選出され、フィジーに遠征してフィジアンセブンズとテストマッチを行った。 NZに帰国し2週間後、セブンズのAll Blacksへ召集されることになった。監督のソーバーン氏はトッドHCの突破力、ワークレートの高さ、積極的なタックル、そして当時は過小評価されていたハンドリングスキルとアジリティがセブンズ向きであったと評価している。
1993年はセブンズW杯があり、開催国はスコットランドであった。トッドHCとは縁が深いスコットランドであるが、この時W杯で初めてスコットランドを訪れマレーフィールドでプレーした。
予選プールを全勝で勝ち上がったABsだったが、キープレイヤーを怪我で欠いたこともあり続くステージで負け越し敗退してしまった。 NZに帰国した時、トッドHCは連戦の疲れにより疲労困憊で、さらにいくつかの負傷を抱えていたが、カンタベリーの試合に出てほしいとヴァンス監督から電話があり、シーズン最後の2試合に出場した。プリシラ夫人や母のキャロラインさんの支えがあってなんとか出場できるレベルに回復した。
ちなみにトッドHCは若い自分を信頼して起用してくれたヴァンス監督にとても感謝し、尊敬していたという。
(トッドHCのセブンズプレー動画をご紹介)
FWらしからぬ突破力!
BRAVERとしては、セブンズと15人制の両立の大変さを知るトッドHCが、ブレイブルーパスに戻った宮上選手をどういう風に起用するかも気になります
Toddy's Episode 09 トッドHCとキャプテン
トッドHCはカンタベリーに加入した時にキャプテンを務めていたマイク・ブリュワーをとても尊敬しており、そのカリスマに惹かれていた。
現在のSuper Rugbyの前身となるSuper12が始まった1996年、ブリュワーはアイルランドへ移籍することになった。ヴァンス・スチュワート監督はブリュワーに「後任のキャプテンとしてトッドHC(当時25歳)は選択肢になるか?」と相談したという。
2人の相談の結果、後任のキャプテンはPRのリチャード・ローが務めることになった。
ヴァンス監督は当時のことを「トッドHCはキャプテンを務めたがっておらず、新たにSuper12が始まる年にその役割を担わせることはとても困難に感じた」と振り返っている。
ヴァンス監督とロー主将の下、新生カンタベリー・クルセイダーズのシーズンが始まった。
トッドHCはクルセイダーズの試合で初めて南アフリカ遠征を行った。南アフリカでのWestern Province戦でトッドHCは初めてゲームキャプテンを務めた。南アフリカではラグビーに関係あるなしを問わず様々な経験に魅了された。
一方で、96年シーズンはクルセイダーズにとって暗黒のシーズンであった。ハードなトレーニングを重ねたがチームとしての一体感を欠き、またケガ人も続出し12チーム中最下位でシーズンを終えることになった。
トッドHCは96年シーズンを「敗北とはどのようなものであるか、決して忘れられない。しかし96年があったから後の3連覇(98,99,00年)に繋がった」と振り返っている。
リチャード・ローはブリュワー主将の元では素晴らしい選手であったが、Super12のチームを従える資質があったかは疑問があるとトッドHCは述べている。
トッドHC曰く、ローは常に攻撃的で、前のめりにチームを引っ張ることしか知らなかったと言う。アグレッシブすぎて常に興奮しているような状態であり、試合外でのメディアでの舌戦も激しかった。
またローは手癖が悪くSuper 12の試合で相手選手を殴り出場停止になり、その代わりにトッドHCがキャプテンを務めた試合もあった。
他にも相手選手の目を抉り6ヶ月の出場停止になるなど模範的とはいえない選手であった。
96年のクルセイダーズは2勝1分8敗という戦績だが、このうち1勝1分はトッドHCがキャプテンを務めた試合であった(自分調べのため、違っていたらすみません💦)
クルセイダーズのシーズン終了後、All Blacksの代表合宿に参加したトッドHCが再びカンタベリーの試合のためにクライストチャーチに戻ってくると、ヴァンス監督はトッドHCを新キャプテンに任命した。
ヴァンス監督の見立てでは、すでにトッドHCは十分にキャプテンの資質が備わっていたが、トッドHCはチームの代表者としてメディアの前に出ることを少し恐れていたように見えた。
それまでメディアへのスピーカーはシティボーイで弁が立つSOアンドリュー・メルテンスが務めていた。トッドHCは田舎で生まれ育ったためメルテンスのように振る舞うことが出来るか恐れている、コンプレックスがあるように見えていたという。
結果としてこのヴァンス監督の見立ては杞憂であった。
Super12での経験で自信がついたトッドHCはキャプテン就任のオファーを自ら進んで受諾した。
トッドHCはフィールドでのハードワークにより模範とプレー基準を示すキャプテンであった。誓ったり叫んだりするタイプではなく、静かに激しくハードワークを続けた。
トッドHCのプレーが基準でありそれが明確であるため、選手間のコミュニケーションが明快かつスムーズになり、チームは再びまとまっていった。
またトッドHCはパススキルが非常に高く、ロングパスやフリックパス、リバースパスも高い精度でこなせたらしい。
バックローで出場する試合では大抵ラックやラインアウトに入ってしまうため、それらを見せる場面が乏しかったのと本人が派手なプレーを好まなかったので、キャプテンになって初めて皆がそのスキルの高さを知ったという。
Toddy's Episode 10 トッドHCのLO転向
トッドHCは元々バックローの選手であり、ネルソンベイやコリングウッドではNo.8、カンタベリーではFL(主に6番)でプレーしていた。
1996年のカンタベリーのキャプテンになるのと時を同じくして、LOにポジションを転向することになった。これはチーム事情によるものであり、ヴァンス・スチュワート監督はトッドHCのベストポジションは6番FLだと考えていた。
だがケガ人が多発したことによりLOが手薄になってしまった。トッドHCはジャンパーとしてチームで一番優れていると評価されポジションを変更することになった。当時のトッドHCの欠点といえば身体が大きくてリフトする選手に少し負担がかかることくらいで、すでに準備ができている選手である、とヴァンス監督は考えていた。
トッドHC自身、1996年のLO転向はとても大きな変化だったと述べている。
トッドHCがLOに転向したことで、6番FLにはスコット・ロバートソン(現クルセイダーズHC)が入り、7番FLにはアンガス・ガーディナー(現クルセイダーズGM)、No.8には新加入のスティーブ・サリッジが入った。
※スティーブ・サリッジは珍しい経歴を持つ選手なので、別エピソードで取り上げる予定です。
96年シーズンはヴァンス監督最後のシーズンであった。キャプテンに就任しLOへ転向したトッドHCはヴァンス監督のために優勝を目指したが、準決勝で敗れ有終の美を飾ることは出来なかった。
そしてヴァンス監督退任の後、カンタベリー新監督にはロビー・ディーンズ(現埼玉ワイルドナイツHC)が就任する。ロビー・ディーンズ監督とトッド・ブラックアダーキャプテンは、新たなチーム・ビルディングのために、まずチームを4つのグループに分けてトレーニングを行うところから始めたのである。
(EP12へ続く)
Toddy's Episode 11 トッドHCとスティーブ・サリッジ
トッドHCのLO転向に伴い、新たに加入したスティーブ・サリッジがカンタベリーのNo.8になった。
サリッジはNZ北島のオークランド出身で、トッドHCの1歳年上であった。ニュージーランドのユース代表であるニュージーランド・コルツでトッドHCと共にジョン・ハート監督の下でプレーした。
1991年、クライストチャーチで行われたコルツでの試合の後、サリッジは柔道のトーナメントに参加する予定があり、一度オークランドに帰るかクライストチャーチに滞在するか悩んでいると、トッドHCが自宅に招待してくれた。
トッドHCの自宅で4,5日間ほど一緒に過ごしすっかり仲が良くなった2人は、服を買いに出かけたりして過ごした。
サリッジはラグビーをする傍ら大学に通い、オークランド大学とケンブリッジ大学(NZ)にて学位を取得している。1993年に一度ラグビーを辞めたのだが、大学で競技を続けているうちにプロラグビーに復帰したくなった。
そこでサリッジはコルツ時代の指導者であるハート監督に相談したところ、カンタベリーかタラナキが良いのではないかと勧められた。
助言を受けてサリッジはカンタベリーのヴァンス・スチュワート監督に電話した。
サリッジは「私のことを知らないと思うが、カンタベリーでプレーしたい。トッドが保証してくれる」とヴァンス監督に訴えた。
ヴァンス監督は一度電話を切り、再度掛け直して「何か解決できるかもしれないから、まずはこちらに来てくれ」とサリッジに伝えた。
このやり取りがきっかけでサリッジはカンタベリーに入団することになった。
トッドHCが推薦しただけで決まったため、トライアルも受けずじまいであった。入団するまでトッドHC以外誰もサリッジのプレーを見たことがない、という異例の状況であった。
サリッジはトッドHCのことをとても信頼していたようであるが、何より彼が評価していることはどれだけの経験をしてもトッドHCが全く変わらないことであった。
サリッジは99年まで在籍し、その後日本でもプレーしたらしい※ 引退後はニュージーランドでForburyという企業の創設者となったという。
※Wikipediaにはヤマハ発動機ジュビロ(現静岡ブルーレヴズ)に在籍したとあるが、ヤマハ側の情報が見つからないため、真偽不明です。。
Toddy's Episode 12 カンタベリーのチームビルディング
1997年のカンタベリーのチームビルディングトレーニングは、シーズン前に真冬の自然豊かで雪景がきれいなハンマーという街の郊外で、3日間のアウトドアトレーニングとして実施された。
主導したのはロビー・ディーンズ監督(現埼玉ワイルドナイツHC)と前年途中から助監督として就任したスティーブ・ハンセン(前All Blacks HC/2015W杯優勝監督)であった。
猛/勇/狼/士のように4つのチームに分けられたカンタベリーの選手達は、極寒の雪山を自転車で駆け回ったり、凍った川を自転車を担いで渡るなどのハードなトレーニングを行った。
最後のトレーニングは最も過酷であり、各チーム1番体重が重い選手を担架に乗せて担いで4kmの道のりを競走する、といったものであった。この4kmももちろん雪中コースである。
これは猛勇狼士で例えるなら、
猛:リーチ選手(115kg)
狼:ディアンズ選手(124kg)
勇:山川選手(113kg)
士:パイル選手(115kg)
を各チームの選手達が担いで極寒の雪山の中で4km競走するようなものであった。
※各選手の体重はチーム公式HPを参照しました
担架で担ぐ際に、皆の背の高さが異なるので、バランスを維持するのも難しく、背の低い小さい選手の負荷も大きかった。(ディアンズ選手の体重を最も支えなければいけないのが高橋選手・杉山選手になるようなイメージだと思います💦)
誰もが疲弊し、凍え、空腹であり、少し怒っていた。
このレースはあまりにも過酷で、いつも誰にでも笑顔で接することで皆に好かれていたトッドHCの親友マーク・メイヤーホフラー(CTB)もついに限界を超え、怒りで雪の中、絶叫する有様であった。当の本人も後に人生で最もハードな3日間だった、と振り返っている。
これは軍隊に倣ったトレーニングであるが、狙いは極限状態で自分自身がどうなるか、それに対して周りがどう反応するか、また自分が他の選手にどう反応するか理解することであった。お互いを曝け出し理解し合うことで真にチームとしての結束の強化を促すことが目的であった。
レースはトッドHCのチームが一番乗りでゴールに到着した。しかし選手達は来た道を引き返し後続のチームを手伝いに戻った。次のチームがゴールするとまた全員が次のチームを助けるために自然と引き返していた。全員が協力することで全チームがゴールすることが出来た。
こうしたトレーニングを通じてカンタベリーにもたらされた変革は、このシーズンを通じてさらに成長し、大きな結果を残すことになる。
ちなみにトッドHC本人はどうだったかというと、担架で担がれる側の選手になってしまい、皆が過酷なトレーニングで狂っていく中で、何もすることがなく申し訳ない思いを抱えながらただただ雪の中担がれて運ばれていたという。
※次回は97年シーズンのカンタベリーの躍進について、当時の映像も紹介しながらご報告します。若き日のトッドHCのインタビュー映像なんかもあるので触れようと思います。
またハンマーはこのような場所のようです。
Toddy's Episode 13 トッドHCと常勝軍団オークランド
1997年のシーズンが始まった。前年度3位で終わったカンタベリーであったが、ロビー・ディーンズ監督体制のNPC(ニュージーランド州代表選手権)初試合となったウェリントン戦は73-7で快勝し上々の滑り出しであった。
続くサウスランド、ワイカト、ノースハーバーにも連勝。そしてオークランド戦を迎えた。
※ちなみにウェリントンはワーナー選手の出身地です。
当時のオークランドはNPC4連覇中かつ至近10年間(1987-96)で8回優勝という、まさにNZ最強のチームであった。All Blacksの選手も多く抱え、カンタベリーの試合に出場した選手のうち13人が現役ABsであった。
※ブレイブルーパスのピアス選手もオークランド出身。ダン・ボーデンBKコーチは元オークランドの選手でした。
Super Rugbyでもオークランドの選手を主体としたブルーズが1996年度王者であり、97年シーズンもクルセイダーズを破っていた。
オークランドのキャプテンであったジンザン・ブルックは代表合宿でトッドHCらカンタベリーの選手に対して「俺は生まれてこの方、カンタベリーには負けたことが無いし、これからも負けないさ」と息巻いたこともあった。
一方でトッドHCは、オークランドにライバル心を持ちつつも、その強さにいつも敬意を抱いていた。
どんなに追い込んでも最後にはオークランドが勝つので「なぜ彼らは勝ち続けられるのだろう?」と考えた。そしてその理由は、洗練され、よく準備された戦術にあるという結論に至った。
トッドHCはラグビーをする上で最も大切なものはガッツとプライドを持ってプレーすることだと考えていたが、ガッツとプライドと"戦術"が勝利のために必要と考えるようになった。
All Blacks主将時代にはオークランドが用いていたサインプレーをABs用に編集して試合で用いたこともあった。
さて、そんなオークランドに対してロビー・ディーンズ監督が仕掛けた戦術はひたすらタックルし続けて相手の出足を止めて押し勝つというプランであった。単純だが、結局戦術や個人技が優れた相手を倒すには、相手を止め続けるしか無かった。
この猛攻猛守の戦術はトッドHCら選手の決死のハードワークにより奏功した。試合は20-9でカンタベリーが勝利した。実に14年ぶりにオークランド撃破であった。
トッドHCがNZ最高の7番FLと評したアンガス・ガーディナー(現クルセイダーズGM)は24回タックルし5回ターンオーバーする大車輪の活躍であった。※通常、試合でのタックル数は多くても15回程度
トッドHCにとってオークランド撃破の喜びは"an unbelievable feeling"であったが、ディーンズ監督は「シーズンで勝利してもプレーオフで負けては何の意味もない」と冷静であった。
その後シーズンは進みカンタベリーはプレーオフ準決勝で再びオークランドと激突した。
準決勝はさらに激しい試合となりトッドHCは「ヘビー級ボクサーのチャンピオン同士が殴り合うような試合であった」と振り返る。両チームトライを許さず、スコアは15-15で終盤まで試合は進んだが最後にペナルティを獲得したカンタベリーがスコアを重ね、21-15で勝利。ついに決勝に進出した(続く)
※おまけ
当時の映像(一部)をご紹介。オークランドのNo.8がジンザン・ブルックです。試合終盤で負けているので流石に焦りが見て取れます。トッドHCも少し映っています(カンタベリーの4番)
その年を最後に海外移籍することが決まっていたジンザン・ブルックはNZ最後の試合で格下と見下していたカンタベリーに敗れることになってしまいました。
Toddy's Episode 14 トッドHCの眠れない夜
1997年NPCの決勝戦が迫っていた。決勝はカンタベリーのホーム(当時)であるランカスターパークでの開催であった。
PRのケビン・ネピアという選手は、出場機会を求めてオークランドから移籍してきた選手だがこの決勝戦を戦うことに選手生命を賭けていた。
というのも彼は準決勝で負傷していて、右膝内側靭帯を損傷していた。準決勝直後に医師に全治6週間と診断された。しかしネピアは諦めず決勝までの1週間で、決死のリハビリを敢行した。
月曜日に松葉杖を使っていたが、火曜日はジムでバイクトレーニングを再開した。水曜日には杖を使わずに歩けるようになり、抗炎症薬を投与してトレーニングに臨んだ。そして金曜日には奇跡的にプレーできるレベルにまで回復した。
実際には抗炎症薬を通常の2倍投与しないと動けないほどの状況であったが、とにかくネピアは決勝に出場することに全身全霊を注いだ。ネピアにとってNPC決勝とはそういう試合であった。
ネピアが必死のリハビリを行なっている中、トッドHCは主将として迎える決勝戦の重圧をひしひしと感じていた。
毎晩眠ることができずうなされていた。自分たちのホームスタジアムで相手の主将がトロフィーを掲げるシーンが頭をよぎっていた。
日中も発汗が収まらず、トレーニングウェアがすぐに汗だくになった。スティーブ・ハンセン助監督に頼み、替えのジャージを取ってきてもらうこともあった。眠れない日々が続いた。
決勝戦の相手はカウンティーズ・マヌカウというチームであった。前年の準決勝でカンタベリーはカウンティーズに敗れ3位でシーズンを終えていた。
カウンティーズは1990年代後半に好成績を収めていたチームで、その原動力となった選手が伝説のウイング、ジョナ・ロムーであった。ロムーはその巨大な体躯を活かした圧倒的なランを武器に、敵チームから恐れられていた。
(参考動画)
決勝戦はホームの大声援を受けたカンタベリー優勢で試合が進んだ。
オークランドを撃破した際のハードワークは健在で、鋭い出足でカウンティーズの勢いを止めていった。ロムーに対しては2人以上でタックルしなんとか突破を防いた。
ロムーのハンドオフにより皆ハエのように叩き落とされかけたが、なんとか必死にしがみついた
※ハエを叩く、というのは実際にトッドHCが用いた表現です。ロムー恐るべし...
前半を19-3で折り返して勝利が見えてくると、普段冷静なロビー・ディーンズ監督ですら興奮を隠せなくなった。
ハームタイム中、ロッカールームの中央に設置された冷蔵庫の上に乗っていたペットボトルを一斉に薙ぎ倒し、そして頂上を指差し「The bloody trophy stays here!(トロフィーは我々のものだ!)」と選手達に叫んだ。
後半に入るとトッドHCが起点となりスクラムやモールから仕掛けてトライを重ねることに成功。
見事にカンタベリーが44-13で勝利し、1983年以来14年ぶりとなる悲願の優勝を果たした。
トッドHC(当時26歳)は様々な挫折を経験しながらも、子供の頃の夢であったカンタベリーのキャプテンとしてトロフィーを掲げるに至ったのである。
(おまけ)
1997NPC決勝戦の様子と当時のトッドHCのインタビューがこちら
※トッドHC思い出のスクラムからのサインプレーは10:53頃から。6番FLがトッドHCです。
※インタビューは11:09頃から
インタビュアー:あなた方のチームにとって素晴らしい日になりました。
トッドHC:選手達を誇りに思います。目指していた目標を成し遂げられて嬉しいです。
インタビュアー:輝かしい成績だと思いますが、一方で少しホッとしたのではないですか?
トッドHC:かなり安堵しています。何日か眠れていなかったのですが、自分たちのやるべき仕事をできてとても嬉しいです。
また(おそらく)試合後のロッカールームと翌日の様子がこちら
おそらくリカバリーメニューの一環でプールにいますが、興奮した選手達によりトッドHCがプールに落とされるシーンが見れます。
Toddy's Episode 15 クルセイダーズのチーム・カルチャー
クルセイダーズの1998年シーズンが始まった。
前年のカンタベリー優勝はほぼ同じ選手達で構成されているクルセイダーズの自信にも繋がったが、ウェイン・スミス監督(現神戸スティーラーズメンター)はまずチームのマインドセットを一つにすることからチーム作りに着手した。
具体的な手法はスミス監督がAll Blacks監督時に行った方法とほぼ同様であるので詳細は省略するが(Episode1参照)、この経験はおそらく今季ブレイブルーパスの猛勇狼士の一連の取組にも通じている。
一方で、98年シーズン出だしのクルセイダーズは冴えていなかった。開幕節チーフスに2点差で敗れると続くワラターズ戦に勝利するものの、レッズとブルーズに連敗して1勝3敗となった。
チーム状況が上向かない中で監督と主将の確執が噂されることもあった。一部のメディアでは、トッドHCがウェイン・スミス監督よりロビー・ディーンズ監督(当時のカンタベリー監督、現埼玉ワイルドナイツHC)の方が良いと母親に言っている、と報道された。オーストラリアを車で移動している時にその事実無根の報道をラジオで聞いたトッドHCは、急ぎスミス監督の奥さんに電話して状況を説明した。またトッドHCのお母さんも火消しに駆り出されることになった。結局は報道の元となったタレコミは作り話であることを当事者が認めて謝罪し、後に訂正された。
ただウェイン・スミス監督はこの騒動の間も一度もトッドHCを疑うことはなかったと思われる。トッドHCが幼少の頃から家族ぐるみの付き合いがあるウェイン・スミス監督は、トッドHCやお母さんのキャロラインさんがそのようなことを他人に告げ口するような人物ではないとよく知っていたからである。
そうして、ちょっとした騒動はあったがクルセイダーズはまとまりを失うことなく、やがて巻き返しが始まった。
巻き返しの要になった選手のひとりにノーム・ベリーマンというBKの選手がいた。ベリーマンは北島でユース世代から頭角を表し、順調にいけば95年W杯ABsとして出場することが有力視された選手であったが、大けがによりその道は途絶えてしまった。ケガ後はチームを転々としてクルセイダーズに流れ着いた選手であった。
そのままでは消えた天才になってしまっていたベリーマンだが、入団早々にクルセイダーズのある選手に言われたことでスイッチが入り、懸命に練習に打ち込み、みるみるうちにかつての輝きを取り戻していった。第9節ハイランダーズ戦では6人の相手選手を弾き飛ばしてトライを決める活躍をみせたし、トッドHCも98年のスターはベリーマンだったと振り返っている。
ベリーマンやネピア(Episode14参照)といったキャリアで挫折を経験した選手がカンタベリーに集まってくることがしばしばあった。チームは彼らに多くのチャンスを与え、彼らもまたその期待に情熱を漲らせて応えてみせた。
どんな選手であっても心から歓迎して迎え入れる文化がチームにはあった。お互いを愛し合うチームであったと、トッドHCは振り返っている。
ちなみに言うとトッドHCは金銭的な話題がラグビーに絡むことが好きではなかった。ラグビーはハートで感じ、チームのため、自身のプライドのため、家族のためにプレーするものだとトッドHCは考えていた。決して高い給料をもらっているからタックルしに行くわけではないのである。
どのような選手であっても、与えられた機会に何を為すか、ということが最も重要な問題であった。クルセイダーズとはそういう文化を持つチームであった。
Toddy's Episode 16 トッドHCとファンの祝福
1998年最初の4戦を1勝3敗で終えたクルセイダーズだったが、ウェイン・スミス監督らコーチ陣が落とし込んだ戦略がはまり始めるとここから破竹の7連勝を決めて、初めてのプレーオフに進出した。
戦略の中でポイントとなったのが、ピッチの中央から外側、外側から中央に切り返す際の選手間の連携であった。FW,BKの区別なく速く激しく入れ替わるので、お互いに信頼がないとギャップを生みリスクとなるが、チームとしてまとまりをもったクルセイダーズは赤と黒の波となって攻守に躍動した。
チームは準決勝のシャークス戦を勝利し、決勝の地イーデン・パークへ乗り込んだ。相手のブルーズは96,97年連覇のSuper 12王者であり、イーデン・パークは敵の本拠地である。
試合は激しい攻守が入れ替わる展開となったが、76分にクルセイダーズが追いつくと79分にSOのアンドリュー・メルテンスが守備の背後に蹴ったキックが不思議なバウンドをしたことでブルーズの選手が捕球できず、インゴールに転がった。
そこをすかさずクルセイダーズの選手がグラウンディングし、終了間際のトライを決めた。
この得点により20-13でクルセイダーズが勝利し、Super 12初優勝を決めた。
【当時の試合映像がこちら】
(トッドHCが主に映し出されるシーンは以下の通り)
3:05 選手入場(トッドHCが先頭)
21:05,48:20,48:45など トッドHCアップ
1:32:45 試合終了&ガッツポーズ
1:42:00 優勝スピーチ&選手・スタッフの呼び出し(ウェイン・スミスさんやロビー・ディーンズさんも登場します)
1:47:45 トロフィー授与
試合後、ロッカールームにクルセイダーズの赤と黒のジャージを着た女性がやってきた。
彼女はジェニー・シップリーといい、当時のニュージーランド首相である。
ニュージーランド初の女性首相であるシップリーさんは、南島出身でクルセイダーズのファンであり、またトッドHCの大ファンであった。
トッドHCがABsの選出から漏れるといつも励ましの手紙を送るほどのファンであった。
トッドHCもお礼を伝えるべく電話したが捕まらず、秘書に伝言を頼むこともあった。
そういう関係であったこともあり、ロッカールームを訪れたシップリー首相はクルセイダーズとトッドHCを心から祝福した。
シップリー首相の祝福を受けた後、チームはクライストチャーチへ飛行機で帰った。
空港は祝福に現れたクルセイダーズのファンで埋め尽くされていて、選手達も全く身動きが取れない状況であった。バスに乗り込んでもバスが空港から出られず、みな疲労困憊であった。
次の水曜日にクライストチャーチで優勝パレードが行われた。
その様子はクリスマスパレード以上に賑やかなものとなり、平日にも関わらず10万人以上がクルセイダーズの祝福のために集まったという。
Toddy's Episode 17 トッドHCとGo To Playoff
1998年から2000年にかけてクルセイダーズはSuper 12を3連覇したが、決して常勝軍団だったかというと実はそうでもなく敗戦することも多かった。
特にプレシーズンマッチにやたら弱いこととシーズン途中の取りこぼしは、地元でも風物詩となっていて、3連覇したシーズンでも首位通過したことは一度もない。
特に1999年は4位に滑り込めるか否かのギリギリの戦いであった。
シーズン途中に8位まで順位を落とすとそこから巻き返し、プレーオフ進出は最終節シドニーでのワラターズ戦の結果次第となった。
試合はボーナスポイントが必要なクルセイダーズが猛攻を仕掛けたが、自陣ゴールライン前の守備での反則が多く、トッドHCはキャプテンとしてレフリーに呼び出された。
レフリーは「タックルしたらすぐに離すようにチームに伝えなさい。さもないと次に反則した選手をシンビンにする」と告げた。ボーナスポイント獲得のためにトライされることを避けたいクルセイダーズとしては悩ましい状況であった。
そこでトッドHCはチームメイトを集めて、胸の前でバインドを離すようなジェスチャーをした。それはレフリーの言う通り、タックルしたらすぐに離そう、と伝えるような仕草であった。
しかし、実際にはレフリーに聞こえないように「このままの勢いでディフェンスし続けるぞ!」とチームメイトに伝達した。
クルセイダーズには、たとえレフリーに言われたとしても自分たちがやると決めた事は絶対にやり抜くという覚悟があった。
トッドHCはレフリーに言われたことに表向きは従うふりをして、自分たちのラグビーを貫く選択をしたのである。
結果として、38-22でワラターズに勝利し4位でプレーオフに滑り込むことができた。
プレーオフでは準決勝で首位通過のレッズを敵地で破り、決勝はトニー・ブラウン(現日本代表アシスタントコーチ)を攻撃の核として決勝に進出したハイランダーズも敵地で撃破し、見事に2連覇を成し遂げた。
Toddy's Episode 18 トッドHCと日本からのオファー
2019年に東芝ブレイブルーパスのヘッドコーチに就任したトッドHCだが、実はその20年前の1999年に日本のあるチームからオファーを受けている。
Super 12を連覇したクルセイダーズのキャプテンに白羽の矢を立てたのは、ジョン・カーワン(当時NEC所属、後に日本代表監督)であった。
ジョン・カーワンの勧めによりNECがトッドHCに出したオファーは、高額年俸の5年契約に加えて、家族達が住む施設を無償で提供するというものであった。
さらにニュージーランドとの移動に使用する航空機はトッドHC本人や家族だけでなく知人を招く際や帰国する際にもNECが交通費を負担する、というものであった。
提示された年俸や高待遇にトッドHCは「圧倒される内容だった」と振り返っている。なお東京にも成田にもアクセスしやすい立地もNECのセールスポイントの一つであった。
トッドHCはこの誠意あるオファーに対して悩んだ。
-まず家族はどうか?
-プリシラ夫人はいつもトッドHCのやりたいことを肯定し、後押ししてくれるからオファーを受けて日本に行っても大丈夫だろう。
-では子供達はどうだろうか?
-彼らにとって良い判断だろうか?
-またキャリアにとってはどうか?
-ニュージーランドを離れるということは二度とオールブラックスには戻れないということである。それで良いのだろうか?
※トッドHCは1999年W杯のAll Blacksメンバーから落選している
しかしそうした悩みは誰かや何かに自分の決断の責任を押し付けているように感じてきて、トッドHCは思い直した。
-自分はカンタベリーでプレイすることが夢であった。そしてその夢はすでに叶った。
-しかしまだカンタベリーに対して自分にできることがあるはずで、自分はそれをやりたい。
ちょうどニュージーランド協会の人事異動があり、協会からも慰留されたことを機にトッドHCは契約を延長。ニュージーランドに残る決断をした。
翌2000年、ウェイン・スミス監督がAll Blacksの監督に就任したことからクルセイダーズの後任監督にはロビー・ディーンズが就任する。
新任監督のロビー・ディーンズと残留したトッド・ブラックアダー主将の下、3連覇を目指すシーズンが始まったのである。
Toddy's Episode 19 トッドHCとロビー・ディーンズ
「嵐を巻き起こせ!!」
2000年のSuper12決勝はオーストラリアのキャンベラで行われた。
決勝戦の開始前にロビー・ディーンズ監督はトッドHC以下、クルセイダーズの選手達に激しく檄を飛ばした。
クルセイダーズの対戦相手はエディー・ジョーンズ監督(現オーストラリア代表HC、元日本代表HC)率いるブランビーズであった。
試合は接戦となったが77分のペナルティキックでクルセイダーズが逆転。20-19で勝利し、3連覇を成し遂げた。
※当時の映像はこちら
(見どころ)
58:20〜 ロビー・ディーンズ監督とスティーブ・ハンセン助監督
1:29:30〜 決勝戦に敗れ頭をかく若き日のエディーさん
1:31:30〜 トッドHCのインタビュー(ブランビーズを讃え、ロビーディーンズ監督についても言及しています。その他にもコメントしていますが割愛...)
ロビー・ディーンズ監督は1980年代のカンタベリーでフルバックとして活躍した。選手時代は「Give It a Boot Robbie」と言う応援歌があったらしい。
指導者としてのロビー・ディーンズ監督についてトッドHCは次のように語っている。
まず、とても革新的でアグレッシブ、そして選手に対して要求を明確に伝えることが多い監督であった。
例えば、コーチ陣の要求したことを実行しない選手がいた時に、前任のウェイン・スミス監督は「なぜやらないのか?」と理由を尋ねるが、ロビー・ディーンズ監督は「やりなさい」と指示することが多かった。
高いレベルを求める点ではウェイン・スミス監督と同じであったがプロセスが直截的である点が特徴であった。
一方、ロビー・ディーンズ監督はトッドHCを次のように評価している。
「トッドはIQだけでなくEQ※がとても高い。そして観察する能力に長けている。誰しもが彼の人間的魅力に惹かれ、付いていきたいと思わせる。監督・コーチの要求している内容を正確に把握し、選手達をうまくその目標へ導くことができるキャプテンであった」
※EQ:心の知能指数。自他の感情理解や表現力などを示す数値でスポーツに限らずリーダーには高いEQが求められる。
2人は高い目標に向かってそれぞれの立場でクルセイダーズを導き、そして3連覇という偉業を成し遂げるに至った。この後2008年までロビー・ディーンズ監督はクルセイダーズを率いた。在任中に5回優勝を成し遂げた。
そして2009年、ロビー・ディーンズ監督の後任としてトッドHCがクルセイダーズHCに就任した。トッドHCは在任中に優勝することはなかったが、最も多くのクルセイダーズの試合を指揮したHCとしてその名をクラブの歴史に刻んでいる。
(おまけ)
トップリーグ、リーグワンにおけるロビー・ディーンズ監督とトッドHCの戦績
2020年2月15日○パナソニック 46-27 東芝● @熊谷
2022年2月19日○埼玉WK 30-18 BL東京● @熊谷
2022年12月17日○埼玉WK 22-19 BL東京● @熊谷
2023年4月22日○埼玉WK 34-22 BL東京● @秩父宮
Toddy's Episode 20 トッドHCとアンガス・ガーディナー
アンガス・ガーディナー(現クルセイダーズGM)はトッドHCと一緒に長年カンタベリーとクルセイダーズを支えた戦友である。
その献身的なプレイスタイルで攻守にオールアウトするFLのプレイスタイルは、今もクルセイダーズの7番に受け継がれている。
今回はトッドHCとガーディナーのエピソードを紹介する。
1998年のSuper12 最終節は南アフリカでのシャークス戦であった。
シャークスもクルセイダーズも最終節時点ですでにプレーオフ進出を決めていたが、最終節の結果次第でどちらがプレーオフ準決勝をホームで行えるかが決まるという試合であった。
※Super Rugbyはレギュラーシーズン上位のチームの本拠地でプレーオフを戦う形式
クルセイダーズは最終節に勝てばクライストチャーチに帰ることができ、負ければそのまま南アフリカに留まり翌週再びシャークスと戦うことになっていた。
当時トッドHCとガーディナーは遠征時のルームメイトであった。
シャークス戦の前、部屋で深刻な顔をしているトッドHCにガーディナーは気づいた。
トッドHCはガーディナーにこう言った。
「大変だよ、この最終節に勝たないと。そうでないとイーサン(トッドHCの息子)の誕生日会に出席できなくなってしまう。欠席なんてあり得ない!」
多くの選手は最終節に続くプレーオフでの戦いに集中していたと思われるが、このトッドHCの発言を聞いたガーディナーは「そりゃ大変だ、イーサンのために勝たなくっちゃ!!」とトッドHCを励ました。
結果としてクルセイダーズはシャークスに勝利することができ、トッドHC達はクライストチャーチに帰ることが出来た。
また99年、カンタベリーの遠征前に2人でのんびりティータイムを楽しんでいたら、チームスタッフが「何してるんですか!みんな、二人を待っています!」と血相を変えて呼びに来たことがあった。
年長者2人がリラックスしてお茶を飲んでいたために遠征への出発が遅れてしまった。
慌ててバスに乗り込んだのでトッドHCはシューズを忘れたことに気づいた。
トッドHCの大きな足に合うシューズを遠征先で調達できず「サンダルで出ればいいんだよ」とチームメイトにからかわれたという。
遠征先での試合には勝利したが、無理やり履いたシューズが小さく、その出来事以来トッドHCは遠征前に荷物のダブルチェックをするようになったと、ガーディナーは語っている。
さてそんな親友とも言えるアンガス・ガーディナーだが、チームスタッフを経て現在はクルセイダーズのGMとなっている。
選考委員として、先日発表されたトッドHCのクルセイダーズ殿堂入りにも関与している。
ちなみに現在のクルセイダーズにはトッドHCの息子イーサン・ブラックアダーと、ガーディナーの息子ドミニク・ガーディナーが共に選手として活躍している。
2023シーズンはスターター起用も増えたドミニク君だが、クルセイダーズとのサインの場にはGMでありながら父親が同席するのはバツが悪いということでガーディナーは不在だったという噂である。
[註]
誕生日会のエピソードですが、実際の試合開催日程とイーサン君の誕生日がずれているため、もしかしたら別の催しだった可能性があります。
ガーディナーへのインタビューではイーサン君の誕生日とされているため、本文を尊重してそのまま翻訳して記載しました。
Toddy's Episode 21 トッドHCとプリシラ夫人
「プリシラ(夫人)と結婚することができて、自分はとても幸運な男だと思う」
トッドHCは自身の結婚について聞かれたインタビューでそう振り返っている。
プリシラ夫人や家族の支えがあってラグビー選手を続けられたので、トッドHCにとって結婚は良いものであったはずである。
******************
以前のエピソードでも触れているが、トッドHCとプリシラ夫人の出会いは16歳頃に遡る。
溶接やエンジニアの職業訓練を受けにNZ南島北部の都市ネルソンという街に来たトッドHCは、同じコースを受講していたスコット・マッケイさんという人と仲良くなり、週末はマッケイさんの地元コリングウッドに行き、ラグビーをするようになった。
マッケイさんの実家は牧場を営んでいて週末はそこに滞在した。
そしてコリングウッドで出会ったマッケイさんの妹がプリシラさんであった。
2人は出会ってすぐに恋に落ちた...というわけではなく、数年間は仲の良い友達のような関係だったという。
トッドHCがカンタベリーに呼び戻されクライストチャーチに帰るようになってからは、プリシラさんもクライストチャーチに行って一緒に暮らすようになった。
やがて仲が深まり2人は結婚式をコリングウッドで挙げた。
挙式は2月だったが、トッドHCはその後すぐにカンタベリーの試合があったので新婚旅行は無かった。
2人は女の子(シャインさん)と男の子(イーサンくん、現クルセイダーズのイーサン・ブラックアダー)に恵まれた。
プロラグビー選手の妻というのは苦労も多い立場であった。
トッドHCは遠征が多く家を留守にすることが多かったので、不在の間、プリシラさんが家を切り盛りしていた。
子供達と同居していたトッドHCの母親はトッドHCがいないことを寂しがった。
3週間以上の遠征となるとプリシラさんの負担も相当だったという。最長で6週間家を留守にすることもあった。
プリシラさんは「私は子供たちにとって母であり、時に父でもあった」と当時を振り返っている。
トッドHCがAll Blacksのキャプテンになると新たな問題が起きた。
トッドHCは『New Zealand Woman's Weekly』という雑誌の表紙を飾ったことがあった。
All Blacksの選手ともなるとNZでは芸能人やスターのような扱いを受けるようで、当時の人々からトッドHCは"Cute(かわいい)"や"Gorgeous(すてき)"と評判になった。プリシラさんとしては気恥ずかしかったという。
しかもその雑誌に掲載された記事は事実無根の内容(おそらくトッドHC夫婦仲が不仲であるという内容)が面白おかしく書かれていた。
その記事を信じて、プリシラさんに電話してきて「いつ離婚したのですか?」と尋ねたメディアもあったという。プリシラさんは呆れて笑ってやり過ごしたという。
トッドHCの人気はAll Blacks主将になってからさらに高まった。
そのためトッドHCと一緒に出かけても、すぐに人だかりに囲まれてどこに行っても小規模なサイン会のような状況になった。
プリシラさんはいつもトッドHCの20歩先を歩いていたという。
最後に夫婦2人だけで一緒に写真を撮ったことがいつのことだか思い出せないくらいであった。
当時、プリシラさんはインタビューで以下のコメントを残している。
訳:ラグビーが終わったら、私たちは普通の家族に戻れるのかな、と時々思うのです。
※英文部分はインタビュー原文のままです
どこでも人気のトッドHCだったが例外があった。
それはプリシラさんの故郷コリングウッドである。
コリングウッドは小さい町で人口も数百人程度、ラグビースターのトッド・ブラックアダーが町に来たとしても、プリシラさんの友達はトッドHCを"プリシラのダンナさん"として受け入れてくれたという。
コリングウッドはトッドHCとプリシラさんが普通の家族に戻れる唯一の場所であった。
******************
トッドHCとプリシラさんは現在も一緒に暮らしていて、シーズン中は府中の自宅で生活されている(過去の動画にちょっとだけプリシラさんが映っています)
トッドHCが選手たちにオフやバイウィークに家族と過ごすことを推奨されるのは、もしかしたらプリシラさんの支えがあってキャリアを積み重ねた自身の経験に基づいたアドバイスなのかもしれない。
Toddy's Episode 22 トッドHCの後進への思い
2000年、クルセイダーズは3連覇を成し遂げた。
1997年から4年連続でチームをタイトル獲得に導いたトッドHCだが、自身のトップレベルでの選手生活が終わりに近づいていることを感じていた。
昔からの盟友であるアンガス・ガーディナー(EP20参照)やスティーブ・サリッジ(EP8参照)はカンタベリーを去り、異国へと旅立った。
バックローで昔から在籍している選手はトッドHCとスコット・ロバートソンだけになった。
かつての主力選手が去った一方で、カンタベリーの練習場には若い選手達が躍動していた。その中には若き日のリッチー・マコウもいた。
トッドHCはLOの後輩に当たるクリス・ジャック(後にABs67キャップ)の才能を高く評価していて、やがてワールドクラスの選手になれると評価していた。
才能溢れる若手達は新たな時代の始まりを予感させ、同時に後進に道を譲る時機が来たことをトッドHCは感じていた。
***
トッドHCはラグビーと、ラグビーが自身にもたらした様々な貴重な経験に感謝していた。
ラグビー選手でなければ、きっと農夫や酪農家としてニュージーランド内で一生を終えていただろう、とトッドHCは振り返っている。
ラグビー選手として様々な国へ遠征し様々な文化に触れることができた。
アフターマッチファンクションはたまに退屈だったが、素晴らしい選手達と交流することができた。
1997年イングランド遠征の時には当時のエリザベス女王陛下に拝謁する機会を得た。フランスやドイツの郊外では美しい自然を気に入り、シチリア島ではゴッドファーザーの雰囲気を味わい、南アフリカでは釣りやスキューバダイビングを楽しんだ。
南アフリカでは檻から逃げ出したチーターにクルセイダーズの選手達が追いかけ回されるというハプニングもあった。
全ての経験は、ラグビーがトッドHCにもたらしたものであった。
現役生活は決して長いものではなく、いつでも必死にプレーし、学び、多くのことを吸収し続けることが重要である、とトッドHCは考えていた。
どんな才能ある選手でも早くから芽が出るわけではないし、一定の運も必要である。なのでユース世代から傑出した才能を集めて将来のAll Blacks候補生を育成するようなエリート厳選型の育成には否定的であった。
地域のクラブチームで必死にラグビーをプレーする選手達にも良い原石がいる、とトッドHCは考えていて、ABsの選手もクラブに戻ってそのチームのために必死にプレーすることで、そこに在籍する多くのラグビー選手を育成することにもつながるはず、と考えていた。
また多世代の選手同士が一緒にラグビーをプレーすることも成長する上で大切である。
テストマッチであれクラブの試合であれラグビー選手として重要なことは、リスペクトを得られるように全力でプレーすることである。
その結果、クラブチームで人知れず才能を磨いた素晴らしい選手が現れることがある。
若い選手達にとって重要なことは各世代の代表に選出されたり、若くして高額なプロ契約を結ぶことではなく、"今いる場所で全力でプレーすること"である。
試合を一緒に戦い抜きたくなるような、多くの良い仲間と出会い、多くの素晴らしい経験をして、生涯の友を作ること、それがトッドHCが若いラグビー選手に期待することである。(了)
Toddy's Episode 23 トッド・ブラックアダーとイーサン・ブラックアダー
トッドHCが現役のころ、息子のイーサン君に遺すと決めたジャージが3着あるという。
1着目はカンタベリーのジャージ。これはトッドHCが子供の頃から憧れ続けたカンタベリーのキャプテンとしてのジャージである。
2着目はワラビーズのジャージ。これはトッドHCがAll Blacksの主将として戦ったブレディスロー・カップで交換したジャージである。
そして3着目はフランス代表のジャージ。フランスはトッドHCにとって、All Blacksにとって、そしてニュージーランド人にとって特別な地であり、彼の地でフランス代表とDave Gallaher Trophyを戦った際に交換したジャージである。(Episode1参照)
(参照)第一次世界大戦で戦死したDave Gallaher(All Blacks)の墓を訪れたトッドHCほかAll Blacksメンバー
イーサン君は6歳の時に答えたインタビューで、それら3着のジャージを父(トッドHC)は自分に遺そうとしている、と答えたという。幼いながらにそのジャージの重要性を理解していたと思われる。
イーサン君も子供の頃からラグビーを始め、6歳の頃はフッカーをやっていた。トッドHCがAll Blacks主将だった時は遠征でトッドHCが出かけてしまうのがとても寂しかったという。
また試合を見に行った時はロッカールームに訪ねていき、トッドHCの戦友であるジャスティン・マーシャル(トッドHCと同時にCrusaders殿堂入り)にサインをもらったりしていた。
イーサン君はマーシャルを「ラスカルマン」と呼んでいた。これはマーシャルがイーサン君を「ラスカル(Rascal=悪ガキ)」と呼んでいたかららしい。当時のAll Blacksメンバーにも可愛がってもらっていたことが窺える。
イーサン君は現在、トッドHCと同じクルセイダーズで活躍しているがカンタベリーには所属せず、NPCではタスマンに所属している。
タスマンは母プリシラさんの実家コリングウッドが所在する地域のチームで、トッドHCも2008年にHCを務めている。なおシャノン・フリゼルも在籍していて2人はチームメイトである。
ケガが多いイーサン君だが現在は復帰し、2023年9月9日、負傷したメンバーとの入れ替わりで2023フランスW杯メンバーへ合流することが発表された。
父であるトッドHCの思い出の地フランスで、トッドHCが叶えられなかったW杯出場を成し遂げることができるか?要注目である。
Toddy's Episode 23.5 イーサン・ブラックアダー加入の可能性?
(Episode 23の番外編です)
イーサン・ブラックアダーのブレイブルーパス東京入りの可能性について、過去にトッドHCは次のように回答しています。(質問者は大野均さん)
引用部分の後もイーサン君を褒めていてトッドHCの愛を感じるインタビューなので追加しました☺️
Toddy's Episode 24 トッドHCとリッチー・モウンガ
SRクルセイダーズのFly Halfは、All Blacksの戦術をも司る偉大なプレイヤーが務めてきた。1996年クルセイダーズ発足から2000年代初頭にかけてはトッドHCとも共にプレーしたアンドリュー・マーテンス、そしてその後継者はW杯連覇を成し遂げたレジェンド、ダン・カーターであった。
2016年、ダン・カーターが12年にわたるクルセイダーズでのキャリアを終えてクラブを去った後、当時HCを務めていたトッドHCはその後継者を決めなければならなかった。
当初はシドニーから招いたベン・ヴォラヴォラ(現フィジー代表)が筆頭と目されていたが、トッドHCが起用を決めたのはNPCカンタベリーでもわずか18試合しか出場していなかった若き日のリッチー・モウンガ(当時21歳)であった。
参考:クルセイダーズ100Capsを機にデビュー他について振り返るモウンガ
モウンガは試合出場を重ねたが、当初はキック精度に難があったようで、うまくショットで得点を重ねられなかった。
しかしトッドHCはモウンガを擁護し、以下のようにコメントしている。
トッドHCは年齢やキャリアではなく現在の実力で選手を評価する指導者であり、若き日のリッチー・モウンガの抜擢もまさにその才能を見抜いての起用であった。
またティム・ベイトマン(ブレイブルーパスOB)はコリン・スレイドやトム・テイラーといった、当時ダン・カーターと共に在籍していた実力者たちがカーターと時を同じくしてクルセイダーズから移籍したこともモウンガにとって好機が巡ってくる転機であったと述べている。
なおリッチー・モウンガがデビューした2016年を最後にトッドHCはクルセイダーズHCを退任しイングランドへ渡った。2017年以降、クルセイダーズとリッチー・モウンガが辿った栄光に満ちたキャリアは周知の通りであるが、その端緒はトッドHCと共にあった。
2023年、7年の時を経て2人は再び東芝ブレイブルーパス東京でキャリアを共にすることになるが、これからの物語は別の機会に記すことにしたい。
おまけ:18歳の時のモウンガ
※今回のエピソードは以下を参考にしました
Toddy's Episode 25 トッドHCとスティーブ・ハンセン
これまでにも登場しているが、現在トヨタヴェルブリッツのディレクター・オブ・ラグビー/総監督のスティーブ・ハンセン氏とトッドHCは、トッドHCが現役選手の頃からプライベートでも交流があり親しい間柄である。
ハンセン氏が1996年にカンタベリー助監督に就任すると、翌97年にはカンタベリーに新たなチームビルディングを導入し、チームの14年ぶりの優勝に大きく貢献した(EP12,13参照)
ハンセン氏が導入したチームを4つのグループに分けて競わせながらビルディングを行うスタイルは、現在のブレイブルーパスにも形を変えて受け継がれている。
W杯優勝監督でありラグビー指導者として世界有数の存在であるハンセン氏であるが、トッドHCとの出会いは1980年代に遡る。カンタベリーのBチームのキャプテンだったハンセン氏のところにベルファスト※というクラブチームから来たトッドHCが練習に参加したことが2人の出会いであった。
※なおベルファストは2023年夏にブレイブルーパスの森勇登選手が留学したチームでもあります
トッドHCについてハンセン氏には印象的なエピソードがある。
それは1998年10月のある土曜日に2人でドライブをしていた時の事である。道のりはクライストチャーチからアシュバートン(クライストチャーチ南西の街)に向かう途中で、車内にはリラックスしたムードが流れていた。
ハンセン氏は思いついたように「トディ、一つアイディアがあるんだ」と言った。トッドHCは「何だい、シャグ?(Shag:ハンセン氏の愛称)」と反応した。
ハンセン氏は続けて「君がAll Blacksのジャージを掴む方法がある。6番FLからロックにポジションを変更するんだ。そして6番はルーベン※に任せる。そうすれば君もルーベンもAll Blacksになれるはずだ。」と発言した。
※ルーベン・ソーン:当時クルセイダーズに在籍したロック。このエピソードの翌年All Blacksに選出され50Capsを獲得 。
この後のトッドHCのリアクションは、ハンセン氏は決して忘れることはないものであった。トッドHCは「もしあなたがルーベンにAll Blacksの6番FLが務まると考えているのであれば、自分は(ポジションを)変えるよ」と答えた。
ハンセン氏はこの日のこの発言は素晴らしいものだと感じたという。ハンセン氏はトッドHCについて「トディは質の高いプレーを示し続けることで特別な存在になった。常に他の人のことを大事にして、自分自身を優先することはなかった」と評している。
トッドHCとしては、それまでにロックで出場したこともあったが(EP10参照)、All Blacksでもカンタベリーやクルセイダーズでも基本的には6番FLで出場していたため、6番でプレーすることが自分にとって自然であると思っていて、ためらいがなかったと言えば嘘であった。
ただ当時ルーベン・ソーンはクルセイダーズのロックを担っていたのでお互いのポジションを入れ替えるのみで他の選手に影響しなかったことや、何よりトッドHCはルーベン・ソーンをリスペクトしていたので、このポジション変更を決断することが出来たという。
トッドHCは「キャプテンとしてのプレーの仕方も変わるし簡単なことではなかったけど、とにかくルーベンも自分もやるしかなかったんだよ笑」とこの時のことを振り返っている。
(余談)
2000年代に入るとトッドHCもハンセン氏も一時NZを離れたが、やがてNZに帰還した。2008年ロビー・ディーンズ氏の後任のクルセイダーズHCの人選が進められた時にはハンセン氏が立候補したが、当時All Blacksのコーチを務めていて、後に兼任不可である判定を受けてこの立候補を取り下げた。取り下げの際、ハンセン氏はとても落胆したという。そしてハンセン氏を除いた候補者の中からトッドHCがクルセイダーズHCに就任したのである。
Toddy's Episode 26 トッドHCとコーディ・テイラー
若い才能を積極的に登用するトッドHCだが、コーディ・テイラーもまたトッドHCに見出された1人である。
19世紀末のAll Blacksメンバーであったウォルター・プリングルの子孫であるコーディ・テイラーはNZ北島レヴィンという街で生まれた。2011年にJunior All Blacksとして参加し、ジュニア世界選手権で優勝すると翌2012年、当時トッドHCが率いていたクルセイダーズのワイダースコッドに選ばれ南島のクライストチャーチに渡った。
頭角を表したコーディは、2013年からクルセイダーズの正規メンバーとなり2015年にはトッドHCに以下のように評されている。
上記の記事は2015年5月のものであるが、この後に開催された2015ラグビーW杯イングランド大会において、コーディはAll Blacksとして選出され1試合に出場し、All Blacksは優勝を成し遂げた。その後2019,2023年のW杯にも出場した。
トッドHCと共にクルセイダーズで過ごしたのは2016年までであるが、2人の仲は変わらず良好なようである。
(余談)
コーディ・テイラーはハカのカ・マテの創始者の直系の子孫であり、2022年のスコットランド戦でハカを率いたことがある。