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最低限の自己実現としての創作

伯耕 著

 「表現の自由」という権利が、日本国憲法には記載されています。

 細かいことは置いておいて、「表現の自由」が大切であるということについては、SNSでも異を唱える人は少ないと思います。とはいえ、どのくらい大切なのかという話になると、いろいろ意見があるところですし、表現の種類によっても意見は変わってくると思います。

 SNSで問題となることが多いのは、特に「萌え絵」に代表とする「創作活動」ではないでしょうか? そのところを踏まえて、本稿では「創作活動」の表現の自由について、試論を述べてみたいと思います。

 若干、自由派目線ではありますが、反対意見の方にとってもよき論敵となれるような文章になれば幸いです。

1. 「創作活動」は表現の自由として保障されるのか?

 ノンフィクションや政治的表現については(プライバシーや名誉との兼ね合いは別として)、表現の自由として重要であることが争われることはあまりありません。

 後述しますが、憲法学の文脈に限ってみても、情報の授受は表現の自由の中核であると考えられています。世間的にも、社会問題を告発する「事実」であったり、政策に関する事実は、民主主義にとって重要であると考えられているようです。

 それでは、アニメ絵や漫画などの創作活動はどうでしょうか? この辺になってくると、人によって意見がかなり割れるのではないでしょうか? ましてや、創作活動が政治的表現と同じくらい重要であると言ってしまうと、反対する人も多そうです。

 表現の自由などの人権については、法典に記載されなくても存在するという見解もありますが、とりあえずはとっかかりとして日本国憲法を見てみましょう。

第二十一 条 集会、結社及び言 論、出版その他一 切の表現の自 由は、これを保障する。
② 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

日本国憲法

 表現の自由は憲法21条に規定されていて、こんな感じです。②はまた面倒な議論がありますが、一般には一文目が表現の自由の根拠とされています。

2.「優越的地位」

 以下では教科書的な内容をかいつまんでお話しますので、細部が気になる方のために衆議院の調査資料のリンクを貼っておきます。

https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi046.pdf/$File/shukenshi046.pdf

 憲法21条1項において保障されている「一切の表現」に創作活動が含まれることは文言上明らかでしょう。とはいえ、創作活動が人権として保障されていることがわかったとしても、話はそれで終わりではありません。どの程度強く保障されるのかは、その権利の重要度によってピンキリだからです。

 国家は、人権を犠牲にしてでも政策を実施しなければならない場合があります。移動の自由を犠牲にしてでも犯罪者には懲役刑を課すことがありますし、また、職業選択の自由を犠牲にしてでも一定の職業について資格制を採用することがあります。

 これらの政策には、人権を犠牲にしてでも実現しなければならない立法目的があるとされているのです。そして、こういった立法目的と人権が天秤に載せられた際には、その人権の重要度が問題になるのです。

 さて、人権の重要性について考える際には伝統的に、表現の自由に「優越的地位」があるとされてきました。すなわち、表現の自由は、経済的な人権と比べたときに、類型的に高い重要度が認められるとされてきたのです。

 ここが本稿のスタートラインになります。それでは、創作活動は、表現の自由の「優越的地位」を享受できるのでしょうか。

 この問いの答えは、実は自明ではありません。

3.伝統的な説明からの帰結

 なぜなら、表現の自由の保障根拠と創作表現は、相性が悪いように見えるからです。このことについて詳しく説明します。

 創作活動が「優越的地位」を享受できるのかについて考えるためには、そもそもなぜ表現の自由に「優越的地位」が認められるのかを考えなければなりません。創作表現が、表現の自由に「優越的地位」を認める際に想定されている表現であれば強く保障されるべきでしょう。そうでなければ、ケースバイケースで、他の具体的な人権と比較する必要があるでしょう。

 下手な例で恐縮ですが、次のように考えてみてください。野菜を食べることは重要です。しかし、野菜を食べることが重要なのは、ビタミンを多く含んでおり体にいいとされているからです。そうすると、お茄子などのビタミンをそれほど多く含んでいない野菜は、野菜として重要であるという評価を享受できないことになるのです。

 さて、伝統的に表現の自由の優越的地位の根拠とされてきたのは、①自己実現の価値、②自己統治の価値、③表現の自由競争論です。

 憲法学のオーソドックスな教科書として定評のある『憲法学読本』によると、①は「個人が表現活動を通じて自己の人格を発展させること」であるとされています。

 ②は「国民が表現活動を通じて政治的意思決定に関与すること」です。

 最後に③は、経済的な市場とのアナロジーで、「何が真理か、へと到達させる最上のテスト」は思想の自由競争であるという考えです。

 しかしながら、②③は、創作活動を強く保護する理由にはなりません。

 民主主義に役立つという理由は、一部の創作活動については当てはまる場合があるかもしれません。しかし、創作活動一般に当てはまるわけではありません。あるアニメキャラクターの立ち絵が民主主義に役立つと言われても困惑してしまうのではないでしょうか。表現の自由市場論はもっとわかりやすいです。なんらかの真理を求める議論の一環として、アニメキャラクターの立ち絵を書いている人はいないでしょう。

 それでは、自己実現の価値はどうでしょうか。「個人が表現活動を通じて自己の人格を発展させること」と言われれば、アニメキャラクターの立ち絵についても、ぎりぎりうなづくことができそうです。

 しかし実は、自己実現の価値だけから創作活動を擁護することには、トラップがあります。

 「個人が〇〇を通じて自己の人格を発展させる」の〇〇には、仕事や旅行など、それぞれ職業選択の自由や移動の自由として保障されている行為についてもあてはまるからです。素直に考えれば、自己実現の価値は表現の自由に優越的地位を認めるためのそもそもの前提ではありえても、「優越的地位」を認める根拠にはなりません。

 そのため、創作活動については、当然に表現の自由として「優越的地位」を享受できるわけではないことになってしまいます。

4.自己実現はどのようなものか ー創作は自己実現であるー

 さて、憲法学の伝統的な説明からは、創作活動は「優越的地位」を享受できないのでした。以下では、それにもかかわらず 、なぜ私が創作活動の自由を重要な人権として考えるのかを説明していきます。

 その方法は、「自己実現」という言葉を分析することによってです。

 憲法学で使われる「自己実現」という言葉は、英語でself-realizationといって、19世紀のイギリス哲学に由来するそうです。意味は、「自分の性格や人格の可能性を自分自身で実現すること」です。

 さて、「自分の性格や人格」は生まれ育った環境や歴史によって条件づけられています。自分の精神がフェニックスや巨大ロボットを想像する能力を備えていても、現実で実現することは不可能です。

 しかし創作としてならば、文章やイラスト、アニメといった、制限のない虚構の世界において、自分の人格の可能性を実現することができます。

 このように考えてみると、創作活動は、自分が生まれ育った環境や歴史を超越して、一個の個人として自己実現するための不可欠の手段であるとは考えられないでしょうか?

 しかし、このような価値を認めたとしても、表現の自由としての重要性を主張するまでには、まだ一つのハードルがあります。創作そのものによって自己実現が可能であるならば、これを発表する必要はないようにも考えられるからです。

 ここで思い出してほしいのは、憲法では、社会とは唯一無二の個々人が集合したものであることが前提とされていることです。その表現として、憲法では「すべて国民は、個人として尊重される。」 (13条)と断言されています。

 ある個人が個性をもっているということは、憲法が想定している社会秩序の中では肯定されるべきことなのです。

 念のため補足しておきますが、ここで肯定されると言っているのは、例えば快楽殺人者であっても、そのような個人が存在するという事実そのものは透明化されてはならないという意味であって、快楽殺人者であれば人を殺してもいいということではありません。

 そう、快楽殺人者が現実世界で実際に殺人を犯すことを、社会は認めていません。だからこそ、だからこそ! 実際に行為すること以外で、快楽殺人者としての自分を透明化されない方法が必要であり、それこそが創作なのです。

 このように考えると、創作は、単に虚構であるから価値が低いものとしてではなくて、虚構であるからこそ、最低限の自己実現として認められるべきものとして評価されます。創作表現の自由とは、最も反社会的な「自己」であっても、そのような自己が存在することそのものという最低限のレベルでは肯定されるべきであるという倫理なのです。

 環境や歴史を超越して、人格を社会に顕現すること。その手段としての創作表現!

 よって、創作活動の自由は、表現の自由として優越的地位を有します。

5.理論の先へ

 なお実は、このようにして創作表現を含むものとして論証された自己実現の価値は、伝統的に考えられてきた自己実現の価値とは異なります。

 憲法学では、自己実現のために情報受領が必要であるから、表現の自由が必要であるとされてきていました。ここでは、表現の自由は自己実現のプロセスにかかわる「手段」として認識されています。

 しかし、「創作表現は表現の自由として保障される」というときの創作表現は、自己実現そのものなのです。

 また、ここまでは理論的な問題を述べてきましたが、社会運動としての表現の自由が成功するためには、本稿で論証された創作表現の自由が、実際の創作者たちが重んじている価値と一致していることが必要でしょう。この、残された問題については、ひとまず本稿に対する読者の反応にゆだねたいと思います。

 ここまで読んでいただきありがとうございました。

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