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Orbit「軌道」(9)
# Orbit
## 第九話「改良」
きぼう実験棟の環境制御システムに組み込まれた磁気センサー群。本来は実験棟内の安全監視用として搭載されたそれらの装置が、思わぬ形で注目を集めていた。
「日立のセンサーは、毎秒1回のサンプリングレートを0.1秒間隔まで短縮できる可能性があります」藤堂が報告する。「他のセンサーメーカーにも協力を要請しましたが、東芝からも前向きな回答が」
つくば宇宙センターのスクリーンには、センサーの詳細な仕様が表示されていた。きぼうには複数のメーカーによる磁気センサーが、冗長性確保のために設置されている。それぞれの特性は少しずつ異なり、取得できるデータにも微妙な違いがあった。
「安全監視用として要求されている精度は」速水が資料をスクロールする。「10ナノテスラ。でも、実際の性能はその10倍以上。ファームウェアの制限を解除すれば、理論上は1ナノテスラ単位での計測も可能なはずです」
平岡教授は複雑な計算結果に目を通していた。
「磁気カスケード現象の検証には、この精度で十分です。むしろ、複数のセンサーを組み合わせることで、より立体的なデータが得られる可能性が」
『つくば、こちらISS』瑠璃の声が通信機器から流れる。『各センサーの現状の出力データを送信します。特に、3日前から気になる変動が見られていた№2センサーについても』
画面に表示されたデータを見て、藤堂が身を乗り出した。
「これ、予想以上にクリーンなデータですね。ノイズレベルが、スペックより大幅に低い」
「製造時の余裕を見た設計ですよ」速水が説明する。「日本のメーカーは、必ず実力値に余裕を持たせる。その潜在能力を、今回は最大限引き出すことになります」
議論は具体的な改良案の検討に移った。メーカーの技術者たちもオンラインで参加し、実現可能な改良案を絞り込んでいく。
「サンプリングレートの向上と、ノイズ除去アルゴリズムの改良。この2点は確実に実装できます」日立の技術者が報告する。「問題は、3台のセンサーのデータを統合する新しいプログラムの開発です」
「それについては」東芝のエンジニアが画面に新しい図を表示する。「私たちの地上施設で、実証実験を行いました。同型のセンサーを使って、磁場の微細な変動を計測したデータがあります」
会議は深夜まで続いた。地上での検証、シミュレーション、そして実際のプログラム改修作業。すべてが同時並行で進められる。
「あとは」速水がタイムラインを確認する。「ISSでのファームウェア更新をどのタイミングで行うか」
その時、NASAからの通信が入った。
『太陽活動の予測データを更新』ヒューストンの声。『48時間後に、大規模なフレアの発生確率が80%を超えています』
平岡が瞬時に計算結果を示す。「そのタイミング、ISSの南大西洋異常帯通過と重なります。しかも、今回の軌道は最適な高度と角度」
議論の方向が一気に定まった。48時間後の観測。それは危険を伴う挑戦となるが、同時に最高の機会でもある。
『改良プログラムの転送準備、完了』瑠璃からの報告。『地上からの援助があれば、センサー更新と動作確認、24時間以内に可能です』
「では、決定します」速水の声に迷いはなかった。「直ちにファームウェア更新作業を開始。新システムでの初観測を、48時間後の南大西洋異常帯通過時に実施します」
準備作業は着々と進められた。メーカーの技術者たちは交代で支援を続け、プログラムの最終調整が行われる。
一方、ISSでは瑠璃たちが細心の注意を払いながら、ファームウェアの更新作業を進めていた。
「№1センサー、更新完了」竜が確認する。「動作確認、開始します」
モニターには、更新されたセンサーからの最初のデータストリームが表示され始めた。その精度と安定性は、予想を上回るものだった。
「信じられないほどクリアな波形です」平岡の声が興奮を帯びる。「特に、低周波帯域での分解能が格段に向上しています」
作業は着実に進み、いよいよ重要な観測の時を迎えようとしていた。改良された観測システムは、未知の現象の解明に貢献できるのか。日本の技術陣の懸命の努力が、今、試されようとしていた。
『すべてのセンサー、正常動作確認完了』瑠璃の声が響く。『いよいよ、本番を待つだけとなりました』
(続く)
*1 サンプリングレート:データを取得する時間間隔。より短い間隔で取得することで、より詳細な観測が可能になる
*2 ナノテスラ:磁場強度の単位。地球の磁場は約25,000~65,000ナノテスラ
*3 ファームウェア:装置に組み込まれた基本ソフトウェア。動作の基本的な制御を行う