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Orbit「軌道」(16)

# Orbit

## 第十六話「構想」

朝のビデオ会議で、速水はいつものように各拠点からの報告を聞いていた。

『環境制御システムの応答に、注目すべき変化が』瑠璃の声には、僅かな興奮が混じっていた。『まだ詳細な解析は必要ですが、これまでの理論では説明できない現象が』

『南極からも報告があります』中村からの通信。『ローバの性能が、予想を上回る向上を示しています。特に極限環境下での制御において』

速水は黙って画面のデータを見つめた。これらの情報は、確実に状況を動かす力を持っている。しかし、そのタイミングは慎重に選ばなければならない。

その日の午後。つくば宇宙センター内の会議室には、各社の知財部門、法務部門の責任者が集まっていた。

議論が具体的な実務レベルに入ったその時、速水のスマートフォンが震えた。

『極めて魅力的な条件を提示させていただきます』アメリカからのメッセージ。シリコンバレー最大手のテック企業、アルファ社のCTOからだった。

続いて送られてきた提案書の内容に、会議室が静まり返る。

・技術ライセンス料として1兆円の最低保証
・実績に応じて最大3兆円までの追加支払い
・45カ国でのインフラ展開権限
・アルファ社の通信ネットワークの優先利用権

しかし、その代償として、
・環境制御システムの制御アルゴリズムの完全開示
・収集データの管理権限をアルファ社に一任
・将来の応用開発における決定権

各社の実務責任者たちの表情が強張る。

「たとえこの金額でも」日立の知財部長が声を潜める。「データの主導権を失えば、私たちの将来の可能性まで奪われかねない」

「しかし、この規模の案件は」経営企画部門の部長が食い入るように資料を見つめる。「株主価値の向上という観点からは、無視できない水準です」

技術者たちからも懸念の声が上がる。
「制御の本質を奪われることになる」東芝のエンジニアが首を振る。「一時的な利益と引き換えに、本当に大切なものを失うことに」

上島が静かに分析を加えた。「彼らの真の狙いは、宇宙空間でのデータ支配権です。自動運転分野でも、同様の動きがありました」

会議室が重苦しい空気に包まれる中、藤堂が速水に近づき、小声で報告する。
「ISSと南極からの新たな発見について、詳細な解析が完了しました。これは、想定を遥かに超える可能性を示唆しています」

速水はわずかに頷いた。そして、静かに立ち上がった。

「逆転の発想をしてみましょう」

会議室の空気が変わる。

「自動車の世界を例に考えてみましょう」速水がホワイトボードに図を描き始める。「道路や信号システムという、誰もが使える共通基盤があり、その上で各社が独自の自動車を走らせる」

上島が理解を示して続ける。「鉄道でいえば、線路や信号システムという標準化された部分と、各社が独自の車両を開発し、サービスを競う部分が分かれている」

「私たちが提案するのは」速水が二層の図を示す。「宇宙空間での新しい秩序です。基本的な通信規格や安全基準という、誰もが使える共通の基盤。その部分は、確かにオープンにしていく」

藤堂の目が輝く。「その上で各社が、独自の技術とアイデアで、新しい価値を生み出していく」

「アルファ社には」速水が続ける。「その共通基盤を世界に広げる役割を担ってもらう。彼らの持つネットワークは、確かに大きな価値がある。しかし、その上で何を作り出すか—その権利は各社が保持する」

「具体的には?」三菱電機の役員が身を乗り出す。

「例えば、宇宙船の環境制御という点で言えば」速水が説明を続ける。「基本的な磁場制御の仕組みは共通基盤として提供する。しかし、その上でどんな独自機能を追加するか、どんなデータを収集し活用するか。それは各社の競争領域として残す」

会議室の面々が、徐々に理解を示し始める。これは単なる技術売却ではない。宇宙空間での新たな産業構造の構築。そして、その主導権を握るチャンスだった。

「アルファ社の提案は」速水が静かに言葉を結ぶ。「むしろ、私たちの構想を実現するための強力な追い風になる」

藤堂は息を呑んだ。まだ誰にも明かされていない発見が、この構想をさらに強力に後押しすることを、彼女は知っていた。

(続く)

*1 データ主導権:情報やデータの収集・活用における決定権
*2 共通基盤:標準化された仕組みやルール
*3 競争領域:各社が独自の強みを活かして競う分野

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