
Orbit「軌道」(8)
# Orbit
## 第八話「仮説」
「非線形力学の観点から見ると、今回の現象は極めて興味深い形を示しています」
東京大学の平岡教授が、つくば宇宙センターの会議室のスクリーンに映し出された複雑な波形を指さした。理論物理学の世界的権威である彼を、速水たちは緊急招聘していた。
「どの実験データにも、同じパターンが現れている。しかも、この振動の階層構造は...」
藤堂が新たなデータセットを表示する。火星探査機、ロシアの月探査機、そして現在のISSと南極でのデータが、時系列で並んでいた。
『つくば、ISSからの報告』通信機器から瑠璃の声が響く。『南大西洋異常帯での新たな観測データを送信します。特に磁場の乱れが顕著な領域での記録です』
スクリーンに表示された波形を見て、平岡は身を乗り出した。
「これは間違いない」彼の声が上ずる。「私たちが理論で予測していた"磁気カスケード現象"の特徴そのものです」
「磁気カスケード?」速水が問いかける。
平岡は一度深く息を吐き、分かりやすい説明を心がけるように話し始めた。
「滝を想像してください。上から落ちた水が、岩に当たって飛沫となり、それがまた別の岩に当たって、より細かい飛沫になっていく。エネルギーが段階的に伝わっていく様子です」
平岡がタブレットでスケッチを描き始める。
「今回の現象も、よく似た原理で起きています。宇宙空間では、太陽から噴き出す荷電粒子の流れ、太陽風が磁場の歪みにぶつかる。すると、そのエネルギーが周囲の磁場を次々と歪ませていく。まるで滝のように、エネルギーが連鎖的に伝わっていくんです」
「そして、その影響が私たちの機器に」速水が理解を示す。
「そうです。特に月の磁気異常域では、この現象が増幅されやすい。地球なら磁気圏*1という防御壁があるのですが、月にはそれがない。だから、より激しいカスケード現象が起きうるんです」
藤堂が補足する。「南極での実験で観測された異常も、このカスケード現象の小規模版だったということですね」
「まさにその通り」平岡は頷いた。「実験施設の限られた空間でさえ、これだけの影響が出た。月面では、より大規模な現象として現れる可能性が高い」
その時、南極からの通信が入った。
「中村です」ベテラン技師の声。「実験施設で、新たな発見がありました。磁気シールドの応答特性を変えることで、カスケード現象を部分的に制御できる可能性が出てきました」
平岡の目が輝いた。「それは重要な発見です。理論的には、カスケードのエネルギー伝達を適切なタイミングで遮断できれば...」
「制御できる可能性がある」速水が言葉を継ぐ。「そのためには?」
「三つの要素が必要です」平岡が説明を続ける。「まず、磁場の歪みを精密に検出する技術。次に、ミリ秒単位での高速応答能力。そして最も重要なのが、複数のシステムを統合的に制御する技術」
速水は意味深な表情を浮かべた。それらは、まさに日本が得意とする技術分野だった。
『つくば、こちらISS』瑠璃の声が響く。『次の南大西洋異常帯通過まで2時間。新理論に基づく観測準備が整いました』
その時、NASAからの通信が入った。
『日本チームの新しいアプローチに、大変興味があります』ヒューストンの科学主任の声。『実は、我々の月着陸船でも類似の現象が予測されていました。この理論が実証されれば、Gateway計画全体に大きな影響を与える可能性があります』
会議室の空気が変わった。目の前で起きているのは、単なる一つの技術的課題の解決ではない。人類の月面活動、そしてその先の宇宙探査全体に関わる重要な発見になるかもしれない。
平岡は新たな方程式を書き始めていた。純粋な理論物理学と実践的な工学の融合。そこに、未知の宇宙環境に挑むための鍵があるはずだった。
(続く)
*1 磁気圏:地球の磁場が太陽風と相互作用して形成される防御領域。宇宙からの有害な放射線や荷電粒子から地球を守っている
*2 磁気異常域:月面上で局所的に強い磁場が存在する領域。月全体としては弱い磁場しか持たないが、特定の場所に強い磁場が残存している