草原の果てで振り返る
遠い日の約束が、風に溶けてしまったのはいつからだろう――。
時川仁(ときかわ・じん)は、実験室の角に置かれた古いオルゴールのねじを巻きながら、しんとした空気を聞いていた。既に深夜、街は静寂をまとい、研究棟の外は、灯りの乏しい郊外の草原が果てしなく続いている。仁が望んできたことはただ一つだった。過去に戻り、再びあの「決定的な一日」をやり直すこと。
白衣の袖口が、作業机に積まれた図面に擦れる。錆びついた発条の匂いが鼻孔をくすぐる。その発明は非現実的な夢物語と笑われ、研究費は削減され続けた。それでも彼は、大学を離れ独力で研究を続けてきた。今、黙々と信号灯の光を見つめているのは、仁が組み上げた小さな「時の機械」。箱型の本体と、金属が剥き出しの円盤、青いワイヤー、そして特注の水晶発振器。「こんな原始的な装置で時空を歪められるはずがない」とかつての同僚は嘲笑ったが、仁は確信していた。必要なのは、理論だけでなく「思いのエネルギー」なのだと。
ゆっくりと、機械のスイッチを押す。か細い光が迸り、警告音が小さく響いた。仁は目を閉じる。彼が戻りたいのは、あの春の日。10年前、まだ自分が大学院生だった頃、彼は恩師であり恋人でもあった同僚研究者・橘美緒(たちばな・みお)の提案を斥けてしまった。美緒は新しい理論を提唱し、仁に二人で研究を進めようと呼びかけた。しかし仁は自信を失っており、大学側にも批判され続けていた。美緒の才能と情熱に嫉妬のような感情すら抱いた仁は、彼女を遠ざけるような言葉を吐き、結局美緒は研究を諦め、学会の場から姿を消した。
数年後、美緒は遠い地方の小さな研究所で淡々と働き、そして、ある日突然亡くなったと知らせが届いた。その時、仁は自分が取り返しのつかないことをしたと知った。ふたりで生み出せたかもしれない輝かしい未来は、層状の地層の下で潰えた化石のように掘り返せなくなった。それでも後悔は仁を食いつぶし続けた。そして、「時間を巻き戻す機械」を開発しようと決心したのだった。
ブツッという雑音、視界が揺れる。機械は草原の中央に設置されていたが、いつの間にか仁はキャンパスの研究棟の前に立っていた。新緑が光を透かす。10年前に違いない。
校舎の廊下を急ぎ足で渡り、実験室に向かう。そこには白いブラウスにラボコートを羽織った美緒がいた。軽く束ねた髪、額にかかる前髪、そして資料を手に仁を待ち受ける彼女。美緒は少し不安そうな目で仁を見る。まだ、彼女は研究の出発点に立っている。
「仁さん、これを見てほしいの」
彼女は微細な粒子加速理論を書き記したノートを開く。仁はそれを知っている。美緒が生涯かけて追おうとした理論の萌芽。それを彼は「やめておけ」と冷たく突き放した過去がある。だが今度は違う。
「すごいじゃないか、美緒」
言葉を紡ぐ声音は震えた。この理論が後に彼女の名を世界に知らしめることを、仁は未来の研究成果から知っている。彼女は将来、それほどの発見を成し遂げる素質を秘めていた。彼は続ける。
「一緒にやろう。僕は君と、この研究を完成させたいんだ」
美緒は驚いた顔をする。まさか、いつも慎重な仁がそう言うとは思わなかったのだろう。彼女は瞳を潤ませ、頬を緩める。「本当に?一緒に?」
「もちろんだ」仁は微笑んだ。「君が用意してくれた理論は素晴らしい。僕は全力でサポートする」
あの日とは正反対の反応。これで未来が変わるはずだ。二人は研究室で深夜まで語り合った。ノートに走るペンの音、計算紙をめくる指先、カップに残るコーヒーの香り。美緒は笑顔で、仁に新理論の可能性を説く。そこには怯えも、憂いもなかった。
やがて仁は、時間を戻すために用いた機械を再起動すべく、こっそりと研究棟の屋上へ向かった。今回の旅の役目は終わった。未来に戻れば、彼ら二人が築き上げた成果がある世界が待っているはず。ドアを閉め、空に浮かぶ月を見上げる。装置に手をかけながら、仁は期待に満ちた胸の鼓動を感じた。
次の瞬間、世界がぐらりと揺れ、彼は再びあの草原に立っていた。研究棟は遠くに小さく見える。もう10年後のはずだ。急いで街へ戻ると、研究機関は大幅に拡張され、正門には彼と美緒の名前を冠した研究室が掲げられている。「橘・時川量子力学研究所」と。
思わず涙がにじむ。未来は変わったのだ。かつては資金不足で錆び付いた小研究室しか持てなかった仁は、今や国際的なラボを主宰している。門を入ると、白衣を着た若い研究者たちが忙しく行き来する。彼らが口々に「所長」「橘博士はもう来られています」と言うのが聞こえた。
橘博士――美緒は生きている!仁は駆け出す。エントランスホールには、各国から集められた奨学生が発表用パネルを整えている。奥のガラス越しに、見覚えのあるシルエットが見えた。
「仁さん、ずいぶん早く戻ったのね」
柔らかい声が背後から響く。振り向けば、そこには少し年を重ねた美緒が立っていた。グレーが混じった薄茶色の髪、穏やかな笑顔。目じりに皺が寄るが、若き日の面影ははっきりと残っている。
「美緒…」
彼がその名を呼ぶと、美緒は不思議そうな顔をした。「今日は量子加速機のテスト日よ。あなたが提唱した改良版時空座標変換理論、うまく行くといいわね。私たちがここまで築いてきたことの集大成なんだから」
仁は理解する。10年前に選び取った別の選択が、彼らの世界をまるで違う方向へ導いた。彼と美緒は共に研究し、成果を積み重ね、いま世界を牽引する科学者となったのだ。後悔は上書きされ、充実した関係と業績がそこにある。
だが、何かが胸に引っかかった。
「美緒、ひとつ聞いてもいいかい?」
「どうしたの?」
彼女はくすっと微笑む。その笑顔をこんなに間近で再び見る日が来るなんて、思っていなかった。
「もし、君が10年前、僕が尻込みして君を拒んでいたら、君はどうしていた?」
美緒は首を傾げる。「さあ、わからないわね。そんなことはもう起こらなかったのだし。私たちは一緒に研究を始め、成功させてきた。それがすべてでしょう?」
仁は唇を噛む。彼が思い描いていた「奇跡」は今、現実となっている。ところが、心のどこかで、この世界は「本来の流れ」から乖離しているのではないかという奇妙な感触が芽生えていた。
「そうだね、そうだった…」
声が弱まる。思い出すのは、オルゴールを回す音が響くあの深夜の実験室の片隅。一人、苦い後悔を噛みしめていた元の時間軸の彼がいる。そして今ここにいる彼は、その時間軸を消し去り、違う運命を作りだした。だが、それは正しいことなのだろうか。
研究成果発表会が始まる。学者たちが拍手する中、美緒は壇上で新たな理論を発表し、仁はその隣で誇らしげに肩を並べる。その瞬間、すべてが輝いて見えた。
だが、ひとつ分かったことがある。この世界では、美緒は失われていない。彼女は笑っている。しかし、どこか仁は「本来の美緒の人生」を奪ってしまったかもしれないと感じるのだ。過去を変えてしまえば、彼女が本来歩むはずだった運命は消える。あの「原世界」で苦渋と試行錯誤を経て何か別の真実を掴んでいたかもしれない人生は、もう存在しない。その人生の記憶を持つ者は、仁ひとりだ。
夜、研究所の隅のテラスで、仁は美緒と並んで立っていた。
「君に謝らなければならないことがある」
「仁さん?」
月明かりに照らされる彼女の瞳は穏やかだ。
仁は言葉を選ぶ。「もしも、この世界とは別に、僕が君の提案を拒み、君が一人で苦しんだ未来があったとしたら、どう思う?」
「そんなこと、想像もつかないわ。でも、あなたがそう感じているなら、あなたには何か、私の知らない重みがあるのね」
彼は嗄れた声で続ける。「君を失った後悔が、僕をこの時間旅行へと駆り立てたんだ。君が素晴らしい才能を発揮する前に、僕は君を遠ざけた。君は一度いなくなった。でも今、君はここにいる」
美緒は黙って仁の手を握った。
「たとえどんな奇跡であれ、今ここに私たちがいるなら、それが答えなのかもしれない」彼女はそう言う。
仁はその言葉を噛み締める。この未来を選んだのは自分だ。彼女の才能を輝かせ、一緒に歩む道を確保したのは、自分のわがままかもしれない。だが、美緒は今、幸福に見える。ならばこの世界もまた、一つの真実なのだ。
遠く、草原が広がっている。銀色の光に包まれ、風が草を撫でている。もはや戻る必要はない。彼は旧いオルゴールを思い出し、心の中でそっとねじを巻く。あの音色は届かないが、今、美緒が隣にいる。それがすべてだった。
こうして、仁は手を繋ぐ美緒の温もりを感じながら、静かに草原の果てを見つめる。彼らの時間は、もう二度と振り返らない。今ここにある光が、選び直された運命を祝福する。