妥協した人生は負け組か。

人生は選択の連続だ。すなわち、人生は妥協の繰り返しであるとも言える。妥協をしたことが無い人間は居ないのではなかろうか。妥協は基本的に良くない、いわば本命ではない時に使われる言葉だ。受験での併願校、これも妥協。結婚相手が顔も性格も良いけど、金を持っていない、けれどそこは目をつぶろう。これも妥協。150円のジュースは高いから100円のジュースを買おう。これもまた妥協である。しかし私は妥協こそ人生を豊かにすると考える。妥協の選択肢が強い人間こそ、良い人生が送れると思う。
一般的に人間は本命ばかりを見てしまう生き物だ。そのために対抗策、妥協案は適当に決めてしまうことが多い。しかし、本命の案が通ることは少ない。それではなぜ、人間は妥協案、対抗策を曖昧に、適当に考えてしまうのか。これは本命案で行かないと‘’幸せにならない‘’と考えているからだと思う。だからこそ、妥協案は考えたくない。そして適当に妥協案を選んで本命ばかりを見てしまう。これを読んでいる方はわかると思うが、そんなことは無い。妥協案が功を奏すパターンも多い。
それでは、人間は意識的に本命、対抗はどうやって決めているのか。大方の人間は、人生の選択肢として知らず知らずのうちに‘’私が幸せになれる方‘’で本命、妥協を決めている、と私は考える。MARCH(明治、青山、立教、中央、法政)の人間を煽っている訳では一切ないが、東大に行った方が将来幸せになれそうだから、東大を本命、MARCHを対抗にする。その工程には‘’東大には医学部があって〜‘’だとかあるかもしれないが結局の結論は医学部に入って自分が幸せになる可能性が高いから東大を選んでいる。これが悪いとは一切言っていない。しかし、東大に行ったからといって人生が幸せになる保証はない。MARCHの人間でも幸せな人間は山ほどいる。その中には東大を希望して落ちたから、MARCHに渋々行っている人間もいるだろう。(たまたまMARCHと東大の例を思いついただけで著者はMARCHより偏差値低いです。なので両大学尊敬しております。悪しからず。)

ここまでダラダラと書いてきたが、結論としては、人生は本命案が通ったからといって幸せになれるとは限らないということだ。幸せになれる可能性が高いだけで、妥協案でも幸せになれることがある。だからこそ、妥協案を甘んじて考えて欲しくないのだ。プロスピ民にもわかりやすく例えるなら、使者を付けたかった野手に脅威のスラッガーがついて残念だったけど、最強決定戦中に4割近く打った。こんな所だろうか。そもそも、本命案が通った瞬間に人生が安泰になるなら人生は楽しくない。大穴からでも人生が幸せになる可能性はある。2008年の桜花賞だって、大穴が取っている。三連単700万だぞ。夢がありすぎるだろ。1000円かけていたら、一撃7000万。あれ、話が逸れた。まあいい。そろそろ予定があるので、内容が薄い気もするが、この辺で終わりにしよう。これも私にとっての妥協だ。

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