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体は記憶している

今日から、
日々自分と向き合ったことで得られた気づきを
ここに記していく。

縛られることなく
縛ることなく
心のままに
感じたことをただただ記していく場所。

誰かの目に留まることがあるなら…
そしてそれが誰かの心の気づきとなるなら…

そんな感じでゆっくりゆったり、
書いていこうと思う。


記念すべき、初投稿。


先日、
私が10年前まで結婚生活を送っていた場所へ、
離婚以来初めて足を踏み入れた。

二人の子供も育った場所でもあったため、
上の息子とその土地に向かう車の中で、
「あ!ここ、まだあるよ!」
「へ〜全然変わってないね!」
「へ〜こんなのできたんだ!」
と言いながら、懐かしさに浸っていた。

そしてその土地にどんどん近づき、
私たちが住んでいた丘の上の住宅地が見えて来た時、
少しだけ胸がモヤモヤする『感覚』があった。

でもそんなのもほっとき、車を停め、
少しだけ息子と歩いて散策した。

息子が育った保育園、
息子が通うはずだった中学校、
いつも買い物をしていたスーパー、
子供たちをよく遊ばせていた公園、
息子が通っていたスイミングスクール…

全てが懐かしく、
そしてちょっとだけ、
きちんと子育てができなかった後悔を感じながら、
「今思うとほんと小さな町だったんだね…」
と言い、

[少しだけ苦しいなぁ…]
と、
みぞおちにある『違和感』が少しずつ大きくなっていくのを感じていた。

そして息子が父親と会うということで、
近くまで送っていってそこから歩いてもらおうと思っていたが、
車で動いているうちに、
当時住んでいた家の目の前を通らざるを得ない状態になってしまった。

その途端、
胸がもの凄い勢いで締め付けられ、
鼓動が早くなり、
呼吸が荒くなってきた。

息子に心配かけたくなかったから
車を停め、
「行ってらっしゃい!」
と笑顔で送り出した後、
「大丈夫。苦しいね…大丈夫だよ…」
って自分に声をかけてあげながら
その土地をあとにした。

いろんな苦しかった場面が
フラッシュバックのように思い出され、

足の震え、
血の気が引く感覚、
みぞおちから喉にかけて何かが圧迫している感覚・・・

様々な『体感』が襲ってきた。

離婚から10年という歳月が過ぎ、
今では
「全てが学び」
として捉えることができ、
少し前も
「元夫のご先祖さまにも感謝できる」
と思っていたのに…

今回のことで、
それは『思考に過ぎない』
ということが分かった。

辛い、
苦しい、
寂しい、
悲しい・・・
あらゆる感情は全て
『体感』で記憶している

ということに改めて気付いた。

私がその時に感じた『体感』は、
まさに
離婚の時に味わった感覚
(正確にはもっともっと昔から繰り返してきた感覚)

だった。

人は何か嫌なことがあった時、
胸が締め付けられるような感覚があったり、
何かザワザワする感覚があったり、
喉の奥の詰まる感覚があったり、
頭痛がしたり…
様々な『体感』があるはず。

辛い、苦しい、悲しい、寂しい
という『感情』と
その『体感』こそが
イコールになっていて
人は、
その何となく苦しくなるという『体感』を
味わいたくないから、
それから逃げようとして
気を紛らすようなことをする。

でも、
気を紛らせて無かったことにされてしまった
『感情=体感』は、
どんどん蓄積されていき、
いくら頭で記憶をポジティブなものに変換しても、
そうやってまた『体感』を味わわせようとして、
苦しい現実を目の前に起こす。

要するに、
3%の顕在意識では忘れていても、
97%の潜在意識では記憶しているということ。

現実を創っているのは潜在意識だから、
そりゃあ辛く苦しい現実が
目の前に現れてくるわけだ…

じゃあどうやったらその
『体感』
を消すことができるのか…

それはただただ『感じる』しかない。

放ったらかしにせず、
気を紛らわせたりせず、
無理にポジティブに変換したりもせず、

苦しんでいる自分に

苦しいね
辛いね
寂しいね
泣いていいんだよ
叫んでいいんだよ

そうやって寄り添い、
体にあるザワザワした
『体感』を感じる。

その『体感』としっかり向き合い、
無くなるまで感じ切った後には、
現実が変わっている。


自分とちゃんと向き合うことができてこそ
人と向き合うことができる。

自分に愛を与えてあげることができてこそ
人に愛を与えることができる。

自分と向き合うこと=自分に愛を与えること

私は、
口先だけの愛はいらない。
口先だけの愛も与えない。

そんなふうに生きていく。


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